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正史の記述で三国武将の能力値を決めるスレ2

1 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 13:04:19
ここは「光栄三国志の理不尽な能力値について」からの派生スレであくまで正史の記述に基づいて武将能力値を決めるスレです。
能力値の種類(武力・魅力は不要?)能力値の基準(どの記述がどの能力にあたるのか)、などを含めて議論していきましょう。

◎現在は戦争能力に関して司令官的能力と部隊長的能力に分けて評価中。
現在事績が上がってるのは

于禁、朱然、周瑜、劉備、孫権、馬超、曹仁、諸葛亮、ケ艾
曹操は途中まで。

各事績や関連スレなどは2以降、参照。

前スレ
正史の記述で三国武将の能力値を決めるスレ
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1116828749/

2 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 13:04:51
【関連スレ】
現行スレ:光栄三国志の理不尽な能力値について語れ\
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1116430981/

光栄三国志の理不尽な能力値について語れ
 http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1109662910/
光栄三国志の理不尽な能力値について語れ、2人目
 http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1111489760/
光栄三国志の理不尽な能力値について語れ 2(実質3)
 http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1111489781/
光栄三国志の理不尽な能力値について語れ 4
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1111786882/
光栄三国志の理不尽な能力値について語れ 5
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1112059200/
光栄三国志の理不尽な能力値について語れ 6
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1112449988/
光栄三国志の理不尽な能力値について語れ7
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1113318483/
光栄三国志の理不尽な能力値について語れ[
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1115052300/

三国志10武将データ
 http://s3p.net/〜channel2/sansen/naduke/up-10/10-ichiran.html
以前2chのスレでまとめた正史版の能力評価
 http://www011.upp.so-net.ne.jp/otaclub/3594/seishi9.htm

3 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 13:08:34
前スレ半分使っての成果
【個人的な強さ】
S:許楮、典偉、関羽、孫策、太史慈、ホウ徳、呂布
A:曹仁、張遼、張飛、孫堅、周泰、董襲、甘寧、凌統、丁奉
B:曹操、呂蒙、公孫賛、董卓、曹彰
C:程普、黄蓋、韓当、魏延、黄忠、楽進、凌操 趙雲
D:曹丕、夏侯惇、韓浩、史渙、曹真、ビ竺、孫権、魯粛、劉曄、劉備、徐庶、周瑜、徐盛、蔵覇、馬超、虞翻、郭、陳武、楽進、李通 于禁 蒋欽
E:戦場に出た事のある人物(武官系
F:戦場に出た事の無い人物(文官系
G:杜預先生、厳駿

追加有力候補:夏侯淵 夏侯覇 丁原 高順 成廉 赫萌 曹性 鮑信 カク峻 張ギ 姜維 孫河
追加候補:曹純 曹洪 張コウ 徐晃 顔良 文醜 劉封 馬タイ 馬忠 王平 孫権 孫ヨク 潘璋 朱然 賀斎

4 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 13:11:22
>前スレ半分使っての成果

勘弁してくれw

5 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 13:11:44
武勇はイラネ

6 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 13:15:09
関連スレ

光栄三国志の理不尽な能力値について語れ\
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1116430981/
魏の名将・良将を語るスレ 其の七
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1109393677/
呉総合スレ2
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1113543167/
蜀将討議スレッド12
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1115889844/

7 :司令官的能力と部隊長的能力:2005/06/08(水) 13:17:38
2部隊以上の行動判断や、特定の方面司令官としての功績は「司令部としての能力」【司】
司令官の下に入っての功績、一部隊での判断による功績は「部隊長としての能力」【部】
また、事蹟によってはその両方【司+部】として評価する場合もある。

※細かい事蹟や、【司】【部】の判断があやふやな事蹟については
後程事蹟ごとに討議する方向で検討。

8 :記述抜き出し:2005/06/08(水) 13:20:03
<<劉備>>
スウ靖に従い黄巾討伐。
毋丘毅と共に黄巾討伐。
高唐の令の時、賊軍(黄巾?)に敗れる。
公孫サンの別部司馬として対袁紹戦(?)にてたびたび戦功。
袁術の徐州侵攻を防ぐ為対峙、細かい勝ち負けを繰り返すと、呂布の侵攻を受け下ヒが失陥。
そのため撤退。敗軍の兵をかき集めて広陵で袁術と戦い敗れる。
その後徐州・揚州を荒らす楊奉・韓センを撃破。
呂布と和睦するが兵を集めだすと再び呂布の攻撃を受け敗走。
曹操の庇護下、呂布を攻めるが呂布の将高順に撃ち破られる。
袁術討伐に徐州へ向かうが対戦する前に袁術病死。
曹操の任命した徐州刺史車冑を討ち徐州を支配下に。
曹操の派遣した劉岱・王忠を破る。
曹操が自ら出陣してくると逃走し袁紹の庇護下に。
袁紹の別働隊として許の周辺を荒らすも曹仁のために敗走。
袁紹のもとを離脱し汝南入り。曹操の派遣した蔡陽を撃破。
201. 袁紹を撃破した曹操の侵攻を受け劉表を頼り荊州入り。
博望にて夏侯惇・于禁の侵攻を伏兵を用い撃破。
208. 曹操の荊州侵攻を受け逃走するも呉と結び赤壁にて周瑜らと力をあわせてこれを撃破。
さらに南郡まで進撃、曹操は曹仁を残し撤退。
周瑜らと共に曹仁を攻めつつ荊州の南の四郡を制圧。(詳細は不明)
211. 劉璋の要請を受け益州入りし張魯攻め。しかし実際には張魯を攻めず人心を収攬することに務めた。
212. 劉璋が援軍の要請を受けなかったことを口実に葭萌から引き返し成都へ向けて進軍。
劉璋の白水軍総督の楊懐をだまし討ち。
フへ侵攻、劉璋の派遣した劉カイらを撃破、更に進軍しラクを包囲。
214. ついにラクを抜き成都を包囲し劉璋の降伏を受ける。
215. 孫権が荊州に攻めてくると関羽を益陽に入らせると同時に自らは公安まで戻り孫権とにらみ合い。
曹操が漢中に侵攻してきた為、孫権と和睦し軍を引く。
218. 黄権や法正らの進言を取り上げ漢中侵攻。
219. 陽平で張郃を急襲するが防がれた為、定軍山へ軍を転進し夏侯淵と対峙。
定軍山へ集結した張郃軍が今度は劉備軍に敗れた為に援軍を派遣し手薄になったところを黄忠に攻められ夏侯淵、戦死。

9 :記述抜き出し:2005/06/08(水) 13:20:53
<<劉備>>
>>8の続き
曹操が自ら侵攻してくると要害に篭り抵抗、ついに曹操は撤退し漢中支配を確かなものに。
221. 夷陵の戦役。以下省略。

「蜀書」先主伝から。


10 :記述抜き出し:2005/06/08(水) 13:24:08
前スレより
于禁(部)

・曹操の命により徐州の広威を攻め、陥落させた
・曹操に従って濮陽の呂布攻撃に参加。別軍を率いて城外南の二陣営を破った
・別軍を率い、須昌で高雅を破った
・寿張・定陶・離狐の攻撃に従軍し、雍丘では張超を包囲し、これらを全て陥落させた
・黄巾賊劉辟・黄邵らの征伐に従軍。黄邵らが曹操の軍営に夜襲をかけてきたので、
・于禁は直属の兵を率いて撃破し、劉辟・黄邵らを斬って、その軍勢をことごとく降服させた
・苦における橋ズイ包囲に従軍し、橋ズイら四人の将を斬った
・張繍に敗れた時、軍中は乱れて各人密かに曹操の元へ行こうとしていたが、
 于禁一人部下数百名を率いて戦っては引き、戦っては引いて、
 追撃がやや緩やかになったところでゆっくりと隊列を整え、鼓を鳴らしながら撤退した。この時部下に死傷者が出たが、離脱者は出なかった
 また混乱の中略奪を働く青洲兵を討伐して責めた。逆に謀反だと言い立てられたが、先に陣を整え敵に備えてから曹操に報告した
・穣の張繍攻めに従軍した
・下ヒでの呂布包囲に従軍し、呂布を捕らえた
・延津で志願して歩兵二千人で袁紹軍と対峙。曹操が劉備を攻め延津が手薄になると袁紹が攻めてきたが、堅守した
・別軍を率いて杜氏津で袁紹の別軍陣営を攻撃し、打ち破った
・曹操が陣営を重ね土山を築いて袁紹と対峙した際、袁紹軍に矢を射込まれて多数の士卒が死亡し、曹操軍中は恐怖したが、
 土山の守兵を督促して奮戦したので、士気は次第に奮起するようになった
・陳蘭と対峙して軍糧が少なくなっていた張遼らに前後相継いで食糧を運送した
・張遼・楽進・張コウ・徐晃とともに名将とされ、曹操が征伐に出るたび、みな代わるがわる、進攻のときは先鋒となり、撤退のときは殿軍となった
・数十騎を率いて朱霊の兵を取り上げに行くと、朱霊およびその部下は震え上がって服従し、そのまま于禁の部下とされた

11 :記述抜き出し:2005/06/08(水) 13:24:12
<<曹仁>>
・豪傑がいっせいに蜂起したとき、千人余りを集め淮水あたりで暴れ回った。(部)
・曹操が袁術を破った際、曹仁が斬り殺したり生け捕りにした者はかなりの数にのぼった。(部)
・別軍を率い陶謙の大将、呂由を破る。(部+司?)
・曹操と合流して陶謙軍を撃破。 (部)
・曹操のもとで費県、華県など四県を攻めた。陶謙が救援を派遣すると騎兵を率い撃破した。 (部)
・呂布討伐の際、別軍を率い句陽を攻撃、大将の劉何を生け捕る。 (部+司?)
・曹操が黄巾を討伐し天子を迎える際、たびたび手柄を立てる。 (部)
・張繍討伐の際、別軍を率い近接の県を襲って住民三千を捕虜にする。 (部+司?)
・曹操が張繍に敗れた際、将兵を叱咤激励し獅子奮迅の働きをした、かくて張繍を打ち破る。 (部)
・官渡の際、袁紹が派遣した劉備攻撃を進言、劉備を騎兵で攻撃し撃破した。 (部+司)
・袁紹の将で別働隊の韓荀を撃破。袁紹はこれにこりて二度と別軍を出撃しなくなった。 (部)
・史渙らと袁紹の輸送車を奪い、食料を焼く。 (部)
・曹操が壷関を包囲した際、降服につながる策を献策。 (司)
・江陵で包囲された牛金を数十騎で救出、とって返し残された兵達も救い出した。 (部)
・周瑜軍と正面からぶつかり周瑜に重症を負わせた。 (部)
・千人を率いる甘寧の包囲のため五・六千を派遣するが落とせず、周瑜に撃退される。 (司)
・一年以上、周瑜の包囲から江陵を守るが江陵城から撤退する。 (司)
・曹操の馬超討伐の際、諸将の総司令として潼関を守備、曹操が渭水の南で馬超を破る。 (司)
・楚伯、田銀が叛乱したとき七軍の総司令官として討伐、これをうち破る。 (司)
・宛で侯音が叛乱を起こしたとき諸軍を率いて、これを破り、首を斬る。(司+部)
・関羽に包囲され、食料がつきかけるが将兵を激励しこれを守りきる。 (司?)
・援軍に来た于禁軍が水没するし、窮地に陥ったが徐晃が外側から関羽を攻撃したので、包囲を破った。(司+部)
・濡須で朱桓を誘い込むのに成功するが裏をかかれ撃退される。 (司 +部)
・孫権の大将、陳邵が襄陽に籠もったとき徐晃とこれを討伐した。 (司+部)

12 :記述抜き出し:2005/06/08(水) 13:24:53
于禁(司

・史渙・曹仁とともに射犬でスイ固を攻めて打ち破り、これを斬った(+部)
・袁紹の別働隊の陣営を攻撃するため楽進らとともに歩騎五千人を率い、延津から汲・獲嘉両県まで黄河沿いに進軍
 三十余りの保塁を焼き払い、数千人を斬首、捕虜にし、袁紹の将何茂・王摩ら二十人余りを降伏させた(+部)
・夏侯惇と共に樊城に向けて進軍するが、劉備の逃げたフリに引っかかって追撃、伏兵に遭って敗北した(+部)
・夏侯淵と共に昌キを討伐に出るが、于禁が来たと聞いただけで昌キは降伏した
・臧霸らとともに梅成を討伐に出るが、于禁が着陣すると梅成は降伏した
・七軍を率いて曹仁を救出に向かったが、大長雨で陣は水没してしまった
・厳整に軍を統括した。しかし法によってのみ下の者を制御しようとしたため、兵には嫌がられた

13 :記述抜き出し:2005/06/08(水) 13:25:25
<<馬超【部】>>
・馬騰と韓遂の対立時期にますらおと評判されていた
・鍾ヨウの元に合流し、郭援.高幹.単于を打ち破る
(馬騰軍の精鋭一万余と韓遂の兵(兵数不明)を率いる。郭援.高幹側は兵数数万)
・劉備の元に走り、兵を与えられ成都の包囲に参加
・武都(下弁)に進軍するが、呉蘭が打ち破られ、張飛、馬超は漢中に撤退

<<馬超【司】>>
・鍾ヨウ+夏侯淵の漢中遠征に対し挙兵、(関西軍閥をまとめ、韓遂を説き伏せる)
・劉雄鳴を打ち破る
・長安〜潼関までを制圧、潼関に布陣(軍勢10万)
・「渭水の北で曹操軍を防ぎ、河東の穀物が尽きるのを待つ」と提案。
(韓遂の提案により実行されず)
・渡河しようとしている曹操軍を弓騎兵で襲撃。曹操側の部隊は敗走。
・黄河以西の割譲を要求し、講和を求める書簡を送るが曹操は拒否
・賈クの計により馬超は韓遂に疑心を抱いた事により、組織だった動きが出来ず、
曹操側の軽鋭と騎兵隊の挟撃で連合軍潰走
・馬超は漢陽にて、羌族を利用して反乱(テイ族の王、千万も呼応させる)
・正月/隴右の軍と張魯の派遣した将楊昂の軍(合計1万余)を引き連れ冀城を包囲、
楊阜は1000余人にて防衛。
・8月/救援要請に出た閻温を捕らえ処刑。冀城降伏
・冀城の救援に来た夏侯淵を、冀から200里の地点で迎え、撃ち破る。
・楊阜らの計略により馬超敗走。
(漢陽の尹奉が挙兵。馬超が直接出陣している間に梁寛.趙衢.が城門を閉じる)
・再挙兵して祁山を包囲。
・張コウが兵5000で追撃(夏侯淵は後方補給支援)
馬超はテイ&羌の兵数千を率いて迎えるも、交戦前に逃走。
・張魯の元で度々兵を借り、涼州の奪取に挑むが勝利を得られず。

14 :記述抜き出し:2005/06/08(水) 13:26:06
<<馬超補足>> >>13の続き
・長安〜潼関までを制圧、潼関に布陣
…についての補足。

一、196年あたりから、鍾ヨウが長安に赴任して関西の諸軍の総指揮をとる
二、漢中遠征は、鍾ヨウの軍勢に夏侯淵の軍を合流して行う予定だった
三、馬氏の駐屯地は196年あたり以降は槐里(長安は管轄下では無い)
四、当時、関西で数万世帯という規模の流民が発生している。

派生元でも言われていたけど、
馬超に関しては、潼関布陣後よりこの部分の流れが評価のキーになりそうなんだけど
子細な記述が一切無いぽ。探しに探してこの4点。
これだけでも、かなり大規模な戦闘があった事は推測されるが…

15 :記述抜き出し:2005/06/08(水) 13:27:27
<<呂蒙伝から抜粋 >>
・孫権に従い丹楊討伐に参加、いたる所で戦功を上げる(部)
・孫権に従い先鋒として黄祖配下の陳就の首級をとる (部)
・周瑜・程普らと共に赤壁で曹操を破る (部)
・さらに曹仁を南郡に包囲し窮地の甘寧救援を献策し成功させる (司)
・盧江の謝奇を襲撃し略奪を止める (部+司)
・濡須で曹操を防ぐ作戦で優れた計略を献言、また堡塁を作るよう献策し曹操を撤退させる (司)
・孫権に皖城攻めを上陳し、甘寧とともに皖城を落とす (部+司)
・盧陵で反乱が起きると軍を進めて首謀者を誅殺 (部+司)
・長砂・桂陽を帰順させ郝普をペテンにかけて零陵を奪取 (司)
・合肥で張遼から孫権を命懸けで守る (部?、立場的には司-?)
・濡須で曹操の先鋒を破り、退却させる (部)
・荊州攻略を計画し先鋒として南郡を降服させる (司)

16 :記述抜き出し:2005/06/08(水) 13:28:01
<< ケ艾 >>
249. 対姜維
郭淮とともに姜維の侵攻を防ぐ。
姜維の動きを読んだ献策、行軍に功あり。(ケ艾伝)【司&やや部】
255. 毋丘倹の叛乱。
・即座に軍を動かし楽嘉城を占め官軍の拠点を確保した。
通常の倍以上の行軍速度であったと言う。(ケ艾伝)
これは司馬師の指図であったようだ。(毋丘倹伝)【部】
・(司馬師の)近衛騎兵隊とともに文欽を追撃。(ケ艾伝、毋丘倹伝)【やや部】
・この乱に呼応する動きを見せる呉軍を抑える為、諸葛誕に肥陽に派遣される。
しかし肥陽は賊軍から遠く要害でないと判断し駐屯地を移す。
また諸葛諸らを派遣し抵抗させる(ケ艾伝)【司】
255. 対姜維
姜維に撃ち破られた王経を陳泰のもと救助に向かう。
ケ艾は方針について献策するが取り入れられなかった。
ただしこの場合は陳泰の方が正解だったようだ。(陳泰伝)【司ややマイナスか?特に評価なしか?】
256. 対姜維
・姜維の再度の出兵はないという周囲の意見に対し再度の侵攻を予測する。(ケ艾伝)【司】
・姜維、祁山へ向かうが既にケ艾が備えをとっていたため南安へ向かう。
ケ艾は武城山に立てこもり対峙、要害の地を巡り姜維と争う。
姜維は軍を上ケイへ向け動かすが胡斉が来なかったため軍を引き返す。
段谷にて両者激突、ケ艾は姜維を大いに撃ち破る。(ケ艾伝、姜維伝)【武】

17 :記述抜き出し:2005/06/08(水) 13:28:37
<< ケ艾続き >>>>16の続き
257. 対姜維
・諸葛誕の叛乱に乗じて姜維が再度侵攻。
守備に当たる司馬望のもとへ駆けつけ長城にて対峙。
姜維は何度も戦いを挑むがこれに応じなかった。
やがて諸葛誕の乱が収まったことを知った姜維は軍を引き上げた。(ケ艾伝、姜維伝)【司】
262. 対姜維
侯和に出てきた姜維を撃ち破る。(ケ艾伝、姜維伝)【詳細は分からないけれど司&部】263. 蜀侵攻
・司馬昭の命を受け姜維をひきつける動きを見せる。
鐘会の軍が漢中を抜いたことを知った姜維は軍を返す。(ケ艾伝)【司】
・姜維が剣閣にて鐘会を防いでいることを知り別ルートから攻め入ることを上奏。
難路を何とか抜け緜竹にて諸葛瞻と対戦。
一度は派遣した将が敗れるもこれに叱咤を加え再び戦闘を交えさせ諸葛瞻の軍を撃破。
更に進軍し成都を包囲、劉禅の降伏を受け入れる。【司。難路を越えたことも評価すれば部もか?】

大体こんなもんかな。
呉攻めを念頭に置いた「済河論」・匈奴対策などはここでは評価外か?

18 :記述抜き出し:2005/06/08(水) 13:29:38
<<諸葛亮 >>
212. 劉備の別働隊として張飛らと共に長江をさかのぼり蜀に侵攻。
手分けして郡県を平定。(諸葛亮伝)【司&部】
225. 春、軍勢を率い南征、秋には平定。(諸葛亮伝)【司】(部も?)
228. 春、北伐。
・趙雲・ケ芝を囮の軍として箕谷に布陣させ魏の大将曹真をひきつけさせる。(諸葛亮伝)【司】
・前線の街亭の押さえとして先鋒として馬謖を派遣するが馬謖は敗北。
戦線を維持することは不可能と悟った諸葛亮は軍を撤退させる。(諸葛亮伝)【司−?】
228. 冬、北伐。
・陳倉を包囲するが魏将カク昭が堅守。
二十日間以上攻防を繰り返すが、敵の救援が来たこと・食料が尽きたことなどの理由により撤退。【司プラマイ0かやや−?】
・追撃してき魏軍の将王双を斬る。【部】
(諸葛亮伝、曹真伝など)
229. 北伐(?)
・陳式を武都・陰平二郡へ派遣、これに応じる動きをみせた魏将郭淮への牽制に自らは建威まで出撃。
かくて二群を平定する。(諸葛亮伝)【司】
231. 北伐
・祁山を包囲すると鮮卑族を呼応させる。(諸葛亮伝注)【司?】
・上ケイにて郭淮・費曜を撃破。(諸葛亮伝注)【部】
・戦闘に応じようとしない司馬懿を祁山まで引き込み会戦、これを撃ち破り3千以上の首級を上げる。(諸葛亮伝注)【部&司】
・食料切れのため撤退、追撃してきた張郃を射殺。(諸葛亮伝)【部】
234. 春、北伐
・渭南にて司馬懿と対峙するが司馬懿が会戦に応じず百日あまり経過。
諸葛亮は病を発して陣没。(諸葛亮伝)【司プラマイ0?】

とりあえず諸葛亮伝から。

19 :記述抜き出し:2005/06/08(水) 13:31:00
<<周瑜 >>
孫策の楊州統一の戦い(孫策に従軍している状態で別働隊では無さそう)
・孫策のために軍勢・船・食料を調達する。
・孫策の横江と当利の町陥落、秣陵でサク融・薛礼の撃破、曲阿で劉ヨウを撃破に参加。(周瑜伝)
後にこの戦いの功績を踏まえ建威中郎将の任と様々な賜りものを受け、その厚さは並ぶものがなかった。(周瑜伝)
(ただ、周瑜の優れた才能や孫策との関係の厚さも同時に述べられており、必ずしもこの戦いの功績のみの話しではない)

孫策の荊州奪還戦[中護軍(軍の長官の一人)として参加]
・孫策と共に皖を落とし、尋陽で劉勲を破り、江夏・豫章・盧陵を平定。(周瑜伝)

孫瑜の山越討伐(目付け役として参加)
・麻屯と保屯の討伐に参加、一万余人を捕虜にする。(周瑜伝)
・周瑜と協同して麻と保の砦を落とす(孫瑜伝)

黄祖の部下のトウ龍が柴桑に侵入するのを追撃して撃破、生け捕りにする。(周瑜伝)

孫権の江夏征伐【前部大督(先鋒部隊の司令官)として参加】
・呂蒙、凌統、董襲等の活躍で黄祖を撃破(孫権伝)
・先鋒を指揮して自ら敵の首を取る(呂蒙伝)
・先鋒を命じられ活躍(凌統伝)
・凌統と共に先鋒として活躍(董襲伝)

20 :記述抜き出し:2005/06/08(水) 13:31:34
<<周瑜 >>
赤壁の戦い(司令官として参加)
・魯粛・程普と共に三万の兵で赤壁に布陣、劉備軍と当時疫病の発生していた曹操軍を最初の交戦で破り長江の北に引かせた。(周瑜伝)
・黄蓋の策をとり火計を成功させ、曹操を撤退させる。(周瑜伝)
・赤壁に布陣したが劉備軍に負けた。(武帝紀)
・劉gの一万と合流後、周瑜・程普等の数万と力を合わせて打ち破った。(先主伝)
・周瑜と共に左右の督となり、曹操を破る。(程普伝)
・周瑜と程普にそれぞれ一万の兵を預けて、左右の督とし劉備と共同で曹操を破った。(孫権伝)
・左右に督を置いたため、最終的な決定は周瑜がなしたのだが、程普が不満いだき大事になりかけた(孫皎伝)
・周瑜を総指揮、魯粛を総参謀にして赤壁に臨んだ(魯粛伝)

江陵の戦い(司令官として参加)
・程普と共に南郡にて曹仁と対峙、甘寧に前もって夷陵を占領させる、後に包囲されるが呂蒙の策を用い、甘寧を救出する(周瑜伝)
・曹仁と正面からぶつかり合い流れ矢で重傷を負うが、曹仁が迫るのを知ると軍を奮い立たせて曹仁を撤退させる。(周瑜伝)
・呂蒙の策によって意気が高まり、しばらく交戦したが、やがて曹仁が撤退した(呂蒙伝)
・周瑜軍数万の先鋒数千人に三百人を募り牛金に迎え撃たせるが包囲されたが、自ら救い出した。(曹仁伝)

21 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 13:33:12
孫権(多少訂正)その1

199. 孫策に従い劉勲討伐、さらに黄祖討伐。(呉主伝)【部?】
203. 黄祖討伐。水軍は撃ち破った【部?】が山岳地帯の不服住民に不穏な動きが見えたため撤退。
呂範や程普を各地に派遣し鎮圧。(呉主伝)【司?】
206. 黄祖攻め。呂蒙らの活躍もありついに城を落とす。(呉主伝)【司】
208. 曹操を呂蒙らに赤壁で防がせると共に自らは合肥に向かうもはかばかしい戦果を上げられず帰還。九江に派遣した張昭も成果を上げられず。(呉主伝)
(全部をひっくるめて判断すべき?)【司?】
213. 曹操を濡須で防ぐ。
夜陰に乗じて中洲に渡った魏軍を水軍を動かし包囲、三千人を捕虜とする。(呉主伝注)【司】
214. 廬江の皖城を攻め陥とす。(呉主伝)【司、部も?】
その後、荊州の領有をめぐって劉備と対立、呂蒙魯粛らを派遣し自らも陸口まで出陣。(呉主伝)【司】
曹操が漢中に侵攻してきた為、劉備から和解を申し込まれ和睦、荊州を東西に分割することに。
今度はそのまま合肥攻め。張遼らの急襲にあい惨敗、撤退。(呉主伝)【司、部ともにマイナス?】

22 :記述抜き出し:2005/06/08(水) 13:33:17
<<曹操(対袁紹戦前) >>
・黄巾の乱。騎都尉として潁川の賊を撃破
・反董卓連合軍に参加した際、動かぬ仲間に痺れをきたして張バクの部下と出陣、徐栄と交戦したが負け戦に。
多数の死傷者を出したが、徐栄も曹操が少数ながらも奮戦したのをみて軍を引いた。
・途中揚州まで赴き兵を募集して太守から四千人余りを与えられるが、帰路の途中士卒の多数に反乱を起こされる。
・黒山の賊十万が魏郡を占拠したので、曹操がまず濮陽で賊を打ち破り陣を敷いた。その隙に賊が別の場所を攻撃し始めたので
逆に本拠を襲撃、引き返してきた賊を伏兵で打ち破り大勝。
・匈奴の於夫羅を内黄で撃破。
・青州の黄巾賊100万を鮑信等と共に攻撃、鮑信は戦死したがなんとか敵を降服させ降兵三十万と男女百万を手に入れる。
伏兵を設け、昼も夜も戦いを交え、戦闘のたびに敵を捕えた。
・陶謙を攻めて城十余を落とすが陶謙は城を固守して出てこず。
・再び陶謙を攻めて城五つ落とす。帰還の途中劉備と曹豹と戦い撃破。
・張バクが陳宮と共に反乱して呂布を向かい入れる。曹操は要害を利用しようとしなかった呂布を無能と呼んだが
緒戦にて呂布の騎兵に敗れる。その後再び攻撃をしかけて呂布と百日余り対峙、呂布も食料が尽きて両者とも引き上げた。
・定陶を襲撃し、援軍の呂布を打ち破る。
・夏呂布の将薛蘭と李封を攻撃、援軍の呂布を合わせて打ち破り薛蘭を斬った。
・陳宮と共に一万余人で呂布が攻めてくると、兵が少数ながらも伏兵や奇襲を用いて大勝利を収める。
・再び定陶を襲撃し、兵を別けて諸県を平定。

23 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 13:33:43
孫権(多少訂正)その2

227. 孫権自ら石陽攻めするも成果なく撤退。
殿軍の藩璋は魏の追撃を防ぐことが出来なかったが、朱然の活躍で無事撤退。(朱然伝)(明帝紀、文聘伝によると226年の事らしい。)【司、部ともにマイナス?】
孫権は五万の軍を以って城を20日ほど包囲したが、文聘の守備は堅く成果なく撤退。
文聘は追撃しこれを撃ち破った。(文聘伝)
228. 石亭の戦いの際も皖まで出陣してる模様。(全j伝)【評価対象外?】
229. 孫権、出陣の体勢をとるが満寵の備えを知り取りやめ。(満寵伝)【評価対象外?】
230. 孫権、合肥攻め喧伝、満寵が兵を集めたので一旦撤退するも油断させて再び侵攻しようとする。
しかし満寵はこれを読みきり備えを怠らなかったので孫権は結局引き上げた。(満寵伝)【司】
233. 自ら合肥新城攻め。同時に全綜を六安討伐に派遣。どちらも成果上げられず。(呉主伝)
威勢を示す為上陸したところ、満寵の伏兵にあい数百人の被害。(満寵伝)【司マイナス?or部マイナス?】
234. 蜀の北伐に合わせて再び合肥新城攻め。同時に陸遜らを江夏に、孫韶らを淮陰にそれぞれ派遣。
しかし諸葛亮の死に伴う状況の変化により撤退。(呉主伝)【評価対象外?】
満寵の火計にあい城攻めの道具を失ったり、弟の子孫泰を射殺されるという目にあう。(満寵伝)【司マイナス?or部マイナス?】
236. 合肥攻め。(成果なく撤退?)(陸遜伝)【評価対象外?】

24 :記述抜き出し:2005/06/08(水) 13:34:05
<<曹操(対袁紹戦前) >> >>22の続き
・張バクの弟張超が守る雍丘を包囲、四ヵ月後陥落させる。
・陳の地を攻略。
・袁術の武平を攻めて太守を降服させる
・黄巾の何儀・劉辟・黄劭・何曼がそれぞれ数万を率いていたがこれを撃破。
・楊奉・韓暹から天子を奪還する。
・楊奉は敗れて袁術のもとにはしったがそのまま攻めつづけて砦を陥落させた。
・張シュウが反逆してこれと戦ったが負け戦に。
・袁術が陳に攻めてきたので迎撃に、袁術は曹操が来たことを聞くと部下4名に任せて逃走、それを全員撃破し切り殺した。
・劉表の将ケ済を攻め生け捕りに。
・張シュウを包囲するが劉表が兵を派遣して退路を断たれる。挟み撃ちの危機に遭うが夜中の内に陣営から地下道を掘り脱出、
奇襲の兵を伏せて朝になり追って来た敵を逆に挟み撃ちして撃破。
・呂布を再び攻め、彭城を落とし下ヒまで進撃し、呂布自ら進撃してきたのを打ち破り、配下の勇将成廉を捕虜にした。
・呂布が陳宮の策に従いもう一度出撃したが敗れ、城を堅守したため撤退しようと思ったが、荀攸・郭嘉の策に従い水攻め、ついに滅ぼした。
・曹仁等の活躍もあり袁紹の射犬を落とした。

25 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 13:44:31
劉備(多少訂正)その1

スウ靖に従い黄巾討伐。(先主伝)【部】
毋丘毅と共に黄巾討伐。(先主伝)【部】
高唐の令の時、賊軍(黄巾?)に敗れる。(先主伝)【部】
公孫サンの別部司馬として対袁紹戦(?)にてたびたび戦功。(先主伝)【部】
袁術の徐州侵攻を防ぐ為対峙、細かい勝ち負けを繰り返すうちに、本拠地である下ヒが呂布の侵攻を受け失陥したため撤退。(先主伝)【部や司の評価対象外?】
下ヒに至る頃には軍は散り散り。そこで軍を返して敗軍の兵をかき集めて広陵で袁術と戦い敗れる。(先主伝注)【部マイナス?】
その後徐州・揚州を荒らす楊奉・韓センを撃破。(先主伝)【部】
呂布と和睦するが兵を集めだすと再び呂布の攻撃を受け敗走。(先主伝)【部か司のどちらかがマイナス評価?それとも評価対象外?】
曹操の庇護下、呂布を攻めるが呂布の将高順に撃ち破られる。(先主伝)【部マイナス評価】
袁術討伐に徐州へ向かうが対戦する前に袁術病死。(先主伝)【評価対象外】
曹操の任命した徐州刺史車冑を討ち徐州を支配下に。(先主伝)【評価対象外?】
曹操の派遣した劉岱・王忠を破る。(先主伝)【部】
曹操が自ら出陣してくると逃走し袁紹の庇護下に。(先主伝)【部マイナス評価】
袁紹の別働隊として許の周辺を荒らすも曹仁のために敗走。(先主伝)【部マイナス評価】
袁紹のもとを離脱し汝南入り。曹操の派遣した蔡陽を撃破。(先主伝)【部】
201. 袁紹を撃破した曹操の侵攻を受け劉表を頼り荊州入り。
博望にて夏侯惇・于禁の侵攻を伏兵を用い撃破。(先主伝)【司、部も?】


26 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 13:45:28
劉備(多少訂正)その2

208. 曹操の荊州侵攻を受け逃走するも呉と結び赤壁にて周瑜らと力をあわせてこれを撃破。
さらに南郡まで進撃、曹操は曹仁を残し撤退。(先主伝)【部、やや司も】
周瑜らと共に曹仁を攻めつつ荊州の南の四郡を制圧。(先主伝)【詳細は不明。司?部?】
211. 劉璋の要請を受け益州入りし張魯攻め。しかし実際には張魯を攻めず人心を収攬することに務めた。(先主伝)【部や司の評価対象外?】
212. 劉璋が援軍の要請を受けなかったことを口実に葭萌から引き返し成都へ向けて進軍。
劉璋の白水軍総督の楊懐をだまし討ち。(先主伝)【司?】
フへ侵攻、劉璋の派遣した劉カイらを撃破、更に進軍しラクを包囲。
214. ついにラクを抜き成都を包囲し劉璋の降伏を受ける。(先主伝)【司、部も?】
215. 孫権が荊州に攻めてくると関羽を益陽に入らせると同時に自らは公安まで戻り孫権とにらみ合い。
曹操が漢中に侵攻してきた為、孫権と和睦し軍を引く。(先主伝)【司?】
218. 黄権や法正らの進言を取り上げ漢中侵攻。
219. 陽平で張郃を急襲するが防がれた為、定軍山へ軍を転進し夏侯淵と対峙。
定軍山へ集結した張郃軍が今度は劉備軍に敗れた為に援軍を派遣し手薄になったところを黄忠に攻められ夏侯淵、戦死。(先主伝)【司&部】
曹操が自ら侵攻してくると要害に篭り抵抗、ついに曹操は撤退し漢中支配を確かなものに。(先主伝)【司】
221. 夷陵の戦役。
(省略。呉書に詳しいのでまたの機会に記述を抜き出してみます。)

27 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 14:17:54
あのさー、王渾と呂蒙をやってんだけど要約するべきなの?
あと献策等の参謀的な事績は、どっちで評価するの?

28 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 14:22:43
>>27
場面によると思うよ。
詳しくは前スレの提案者に聞いてくれ。

29 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 14:44:45
王渾は晋書なので時間かかるから
取り敢えず、以後のスレの内容を見てから判断するよ

30 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 14:57:09
>>27
そこらへんは、>>7にあるように
>※細かい事蹟や、【司】【部】の判断があやふやな事蹟については
>後程事蹟ごとに討議する方向で検討。
って事でいいんじゃないかな。

【司?】とか書いといて、決定するのは実際に評価する時でいいと思う

31 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 15:03:58

■曹操>>22>>24■曹仁>>11■于禁>>10>>12
■ケ艾>>16>>17


32 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 15:04:10

■孫権>>21>>23■周瑜>>19>>20■呂蒙>>15


33 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 15:04:22

■劉備>>25>>26■諸葛亮>>18■馬超>>13>>14

34 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 15:06:13
↑ならべてみた。
新しく事蹟抜き出し増えた場合は、追加変更してってください

35 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 15:12:57
>>30
OK
夕方から仕事なので深夜に、どちらかを投下するよ

36 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 15:54:17
とりあえず郭淮関連抜粋中。
一応被らないよう報告しときます。

37 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 16:54:52
皆乙!盛り上がってきそうだな。それと朱然もあったよ。

朱然
・臨川郡の太守として兵2000人を授かり赴任、そのころ盛んに反乱を起こしていた山越を一ヶ月ほどで平定。
・濡須の戦いで大塢と三関屯の防備を勤める。周泰伝によればこの時は周泰の指揮下。
・呂蒙が危篤の時に後任に推挙され、江陵の守備を任される。
・関羽討伐に参加、別働隊として潘璋と共に関羽を捕虜にした。
・夷陵の戦いで五千人を率い、別働隊として劉備の先鋒を破り、さらに退路を断った。

・曹丕が曹真・夏侯尚・張コウを派遣し、曹丕本人も宛まで軍を進めて江陵を包囲。孫権は孫盛率いる1万を長江の中洲に
派遣して、四方に防御壁を備えた砦を作り、外側から朱然を援護させたが、張コウに攻められ瞬く間に砦を落とされ孤立した。
孫権はさらに潘璋・楊粲等を派遣したが包囲は崩れず。この頃江陵の兵は浮腫を患うものが多く戦闘にたえるのはわずか五千人だった。
曹真等は土山を築き、地下道を掘り、やぐらを立てると城壁近くから大量に矢を射掛けたので武将や士卒は顔色を失ったが、朱然は恐れる
様子も見せず、武将や士卒を励まし、隙を突いて陣地を二つ攻め取った。包囲することが六ヶ月に及び、攻め手が大軍で
城兵は少なく、食料も尽きかけていたので、北門を任されていた姚泰が内応を謀ったが、直前に発覚しこれを斬った。
夏侯尚達はどうしても城を落とす事ができぬまま軍を引いたので、朱然の名は敵国にまだ鳴り響いた。

・孫権が石陽を攻めたが軍を返すことになり、潘璋が殿を勤めたが防ぎきれなかった。朱然はすぐさま取って返して敵を食い止め、
先発した船が遠くまで引いたのを待って、それからおもむろに自身も退却した。
・合肥新城の戦いに全jと共に右督・左督を任されたが、疫病が流行り攻撃前に軍を引いた。
・柤中に軍を進めた時、魏の蒲忠と胡質とがそれぞれ数千を率いて来襲して来た。この時配下の武将や兵士は四方に
散らばった状態だったので呼び戻す時間が無かったが、旗本の八百人で敵を迎え撃ち逆襲して敵を撤退させた。
・再び柤中に軍を進めた際、魏の李興等は歩兵・騎兵合わせて六千で退路を断ったが、逆に夜襲をかけて勝利した。

38 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 17:09:01
朱然続き

234. 諸葛亮の北伐に応じ、荊州に侵攻し威勢を示すが途中召されて孫権に従い合肥包囲するも間もなく撤退。
この一連の動きは魏には喝破されていたようでまともに取り合おうとはしなかったようだ(衛臻伝)
236. 2万を率いて江夏郡を包囲するも荊州刺史胡質ら救援に駆けつけると撤退。(明帝紀。胡質伝)
241. 5万を率いて襄陽郡樊城県を包囲するも司馬懿が出馬してくると撤退、追撃を受け被害を出す。(三少帝紀及び注。張既伝注)
246. 祖中に侵入し数千人を斬殺あるいは捕虜とした。(三少帝紀注)

ちなみに「魏書」「江表伝」共に朱然が二度に渡り祖中に侵攻、蒲忠と胡質とを一度目の戦いで破ったとしているらしく、
「魏志」が「魏書」に拠りながらこの記述を省略してることが「異同評」で指摘されてる。

それと追加で陸遜伝によると夷陵の直後曹丕が呉に協力して劉備討伐のためと言いつつ軍勢を動員しているが、内心呉を狙っていると進言、
事実それからほどなくして攻めてきた。


39 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 19:16:10
朱然は演義と正史で別人の代表みたいな人だね。
仲達には負けてるけど。

40 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 20:29:32
<< 曹操 >>

<184年>
・潁川の黄巾賊討伐に、騎都尉として朱儁・皇甫嵩らの後続として出征。
・長社で攻囲された皇甫嵩が波才を撃破したところへ合流し、追撃戦に参加。【部】
<188年>
・8月、西園八校尉が設けられ、典軍校尉に。
<189年>
・12月、陳留で挙兵(兵五千。衛茲、夏侯惇、夏侯淵、史渙、曹洪ら)。【司】
<190年>
・夏侯惇を白馬へ派遣。
・袁紹を盟主とした連合軍が酸棗に集結し、これに参加。行奮武将軍。
・諸侯へ速戦即決を主張するも容れられず、鮑信、鮑韜、衛茲の兵を併せて単独で
 洛陽東方の要害・成皐を扼すべく西進するも、既に滎陽まで進出していた董卓
 麾下の徐栄に汴水で敗れる。曹操、鮑信が負傷し、鮑韜、衛茲は戦死。【司】【部】
(兵力は徐栄が上。曹軍の奮戦により、徐栄は酸棗攻略は困難とみて撤兵)
・酸棗に退き、諸侯へ、孟津、成皐、敖倉、轘轅・太谷の要害・街道を扼し、
 別働隊を三輔へ侵攻させる積極的持久策を提案するものの却下される。【司】
・曹洪、夏侯惇らと揚州において廬江・丹楊の兵を募り、四千余を得るものの、
 龍亢で過半の兵が叛乱。鎮圧し、銍、建平で千余人を得、河内に駐屯。【司】
<191年>
・魏郡を攻撃した十万余の黒山賊を東郡の濮陽で撃破し、東郡太守に。【司】【部】
<192年>
・春、東武陽を発して頓丘に駐屯し、黒山賊を東武陽へ誘引。
 間隙を衝いて黒山賊の本拠を攻撃し、帰路をとった黒山賊を伏兵で大破。
 匈奴の於夫羅を内黄で撃破。【司】【部】
・夏、青州の黄巾軍百万が兗州へ侵入し、東平に達する(兗州刺史・劉岱、戦死)。
 東郡の済北国相・鮑信、陳宮の推輓により、領兗州牧に。
・寿張で黄巾軍と会戦(鮑信、李典ら)。
 兵力で劣勢のなか、軍規(信賞必罰)を徹底させ、伏兵を用いて撃破。
 鮑信が戦死。【司】【部】
 追撃して済北に達し、降兵三十余万を得、精兵を選抜して青州兵を編成。【司】

41 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 20:30:29
<193年>
・春、鄄城に駐屯。袁術が陳留郡に侵入し、黒山賊と於夫羅の兵を併せて封丘に駐屯。
 匡亭へ派遣していた袁術麾下の将軍・劉詳を攻撃し、来援した袁術の軍を大破。
 襄邑に撤退した袁術を追撃し、太寿に達してこれを水攻めにし、更に寧陵へ追撃し、
 袁術は九江へ敗走。【司】【部】
・夏、兵を返して定陶に駐屯。
・秋、下邳の闕宣と徐州の陶謙が兵を併せ、兗州泰山郡へ侵入して華、費、任城を攻略。
 徐州の陶謙を攻撃し、十余城を攻略(曹仁を分遣し、陶謙麾下の呂由を撃破)。
 彭城に達し、陶謙の軍を会戦で大破。【司】【部】
 陶謙は郯に退く。曹軍、糧秣が不足して撤退。
<194年>
・徐州より帰還。
・夏、陶謙を討伐し、即墨、開陽ら五城を攻略し、東海に達す。帰途に郯の東部に駐屯
 する劉備、曹豹を撃破。
 (劉備の戦力は、私兵千人、民兵数千、烏桓騎兵、丹楊兵四千を併せたもの)
 郯より西進し、襄賁を攻略。【司】【部】
・夏、呂布が兗州を席捲し、曹操は甄・范・東阿の三県のみを保持。
 (張邈、張超、陳宮、許、王楷、氾嶷、高雅、劉何、趙庶、李鄒らが加わり、後に
 豫州刺史・郭貢が加わり、薛蘭と李封が曹操から離反)
・徐・青州征伐から反転し、濮陽へ進撃。
 (呂布は東平を根拠として亢父・泰山の街道を遮断して曹軍を邀撃する手段を採らず、
 そのために曹操の兗州侵入を許す)【司】
・濮陽で会戦に至る。呂布、騎兵を展開させて青州兵を圧迫。
 (先陣・楽進。于禁、程c)
 劣勢の末に曹軍撤退し、以後、膠着。【司】【部】
 (この間、濮陽西方の屯営を攻撃(典韋が従軍)し、呂布直率の援軍と戦闘。【部】
  更に于禁を濮陽南方に分遣し、呂軍の二陣営を撃破)
 百余日のあいだ対峙し、蝗害と糧秣の欠乏で両軍ともに撤退。
・九月、甄城に帰還。呂布は乗氏に進駐するものの李進に撃破され、東進して山陽
 (昌邑)に駐屯。曹仁は句陽を攻略。
・十月、東阿へ進駐。

42 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 20:31:06
<195年>
・春、成員太守・呉市が守る定陶を襲撃し、救援に来た呂布を撃退。【司】【部】
・夏、乗氏に進駐し、鉅野に駐屯する薛蘭と李封を攻撃して撃破。【司】【部】
 援軍である呂布は撤退。
・ここで再度の徐州遠征を企図するものの、荀ケの提言で翻意し、糧秣を確保。
・呂布が一万の兵力で東湣から進撃し、曹操は奇襲と伏兵を用いてこれを大破。
(兵力では、曹軍が劣勢)【司】【部】
・定陶を攻撃し、これを攻略。軍勢を分遣し、諸県を平定。呂布は徐州に遁走。【司】
 (曹洪、東阿を拠点に済陰(定陶)・山陽・中牟・陽武・京・密ら、十余県を奪回)
・秋(八月)、雍丘に篭もった張超を攻囲(于禁は離狐を攻略)。【司】【部】
・冬(十二月)、雍丘が陥落し、張超は自刃。袁術へ援軍要請に赴いた張邈、横死。
・東方へ進軍し、陳を攻略。【司】【部】
<196年>
・春、武平を攻略し、陳国相・袁嗣(袁術陣営)を降す。【司】【部】
・荀ケ、程cの提言を容れ、漢帝を奉戴するべく曹洪を派兵するものの、董承と袁術
 麾下の萇奴に阻まれる。【司】
・二月、汝南・潁川の黄巾軍数万を撃破。建徳将軍に。【司】【部】
・洛陽へ兵を進めて漢帝を奉戴。
・九月、許に遷都。仮節鉞・行車騎将軍・録尚書事、司空に。
・十月、董昭の策に遵い、楊奉、韓暹らを放逐してその拠点・梁を攻略。【司】【部】
・棗祗、韓浩の提言を容れ、屯田を開始(任峻、袁渙、国淵)。
・呂布が劉備を駆逐し、徐州を領有。
<197年>
・春、宛を攻撃し、張繍を降すが後に反逆。淯水で張繍に敗れ、舞陰へ撤退。追撃する
 張繍を撃退し、張繍は穣へ撤退し、曹操は許へ帰還。
 (于禁、楽進、曹仁、荀攸、典韋)。【司】【部】
・秋、陳に侵入した袁術を攻撃し、麾下の将を全て捕斬。袁術は逃亡。【司】【部】
・曹洪を派遣し、再度、張繍を攻撃するものの破れず。【司】
・冬(十一月)、宛を討伐し、胡陽に屯する劉表麾下のケ済を攻撃してこれを攻略。
 舞陰を攻略。【司】【部】

43 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 20:31:49
<198年>
・三月、穣の張繍を攻囲。【司】【部】
・夏(五月)、劉表の軍が来援し退路を断たれるが、偽兵と伏兵を用いて撃破。
 (李通、許褚)【司】【部】
・呂布と袁術が結び、劉備を攻撃。夏侯惇を派遣するものの、高順に撃破される。【司】
・九月、呂布討伐に出征(楽進、于禁、徐晃、郭嘉、荀攸)。
・十月、彭城を攻略し、侯諧を捕らえる。下邳へ進撃し、呂布の騎兵を撃破。
 追撃して下邳へ達し、出撃した呂布を再び撃破。
 荀攸、郭嘉の提言を容れ、下邳を水攻めに。【司】【部】
・十二月、下邳が陥落。
<199年>
・二月、昌邑に移る。張楊を楊醜が、眭固が楊醜を殺して袁紹麾下に加わる。
・四月、黄河北岸の射犬に駐屯する眭固を討伐し、犬城で眭固を撃破。【司】
 降伏した兵を編入し、河内郡を平定(曹仁、史渙、楽進、于禁、徐晃)。
 敖倉に駐屯。
・秋(八月)、黎陽に進駐し、臧覇を青州に派遣し、斉、北海、東安を降し、于禁に
 二千の兵を預けて延津に駐屯させる。【司】
・九月、兵を官渡へ送る。
・冬(十一月)、張繍が帰順。
・十二月、官渡へ進駐。
・徐州で劉備が叛乱。王忠、劉岱を派兵するも勝利を得られず。【司】
・廬江太守・劉勳が帰順。

44 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 20:32:29
<200年>
・春、時宜を捉えて徐州の劉備を討伐(郭嘉)。
 劉備を撃破し、夏侯博を捕らえる(楽進、徐晃)。【司】【部】
 下邳を攻撃して関羽を降す。叛いて劉備についた昌豨を撃破。【司】【部】
 兵を官渡へ戻す。
 鍾繇を関中に派遣。【司】
・三月、袁紹が大軍を率いて南下し、黎陽(黄河北岸)に進駐(歩兵十万、騎兵一万)。
 郭図、淳于瓊、顔良、白馬津を渡り黄河南岸の白馬(城将・劉延)を攻囲。
・四月、官渡を発して北上。延津に至って兵の一部を北岸へ渡河させ、袁軍を誘引。
 軍を白馬へ急行させ、白馬を攻囲中の顔良を撃破(荀攸、張遼、関羽)。【司】
 白馬より兵を退き、黄河沿いに西進。【部】
 袁紹、白馬津から黄河を渡り延津へ進軍し、両軍は対峙(于禁、楽進)。【司】
 輜重を囮にし、文醜、劉備を撃破(袁軍・騎兵五千強。曹軍・騎兵六百。徐晃)。【部】
 兵を官渡へ戻し、袁紹は陽武へ進駐。関羽、袁紹陣営へ。
・八月、袁紹は陽武で野戦陣地を構築し、漸進策を展開。
 一万の兵力で攻撃するものの敗北(損耗率二〜三割)。【部】
 官渡において陣地戦を展開。【部】
・九〜十二月、戦況が膠着し、双方ともに兵站への攻撃を展開(荀攸、郭嘉、賈詡)。【司】
 汝南郡で黄巾軍の劉辟、袁紹が派遣した劉備が蜂起。李通と曹仁が鎮定(騎兵六千)。【司】
 陰彊の賊・祝臂を撃破(曹洪、徐晃)。【司】
 袁紹、韓荀を派遣して兵站の切断を試みるものの、曹仁が撃破。【司】
 故市の袁軍輜重を攻撃し、韓猛を撃破(荀攸、徐晃、史渙)。【司】
 袁紹が再び劉備を汝南郡へ派遣し、黄巾軍の龔都とともに兵站を攪乱(数千)。【司】
 蔡陽を派遣するものの、劉備に撃破される。【司】
 任峻、重厚な車列を組み、輜重を防御。
・十二月、許攸の投降を機に、烏巣を奇襲(荀攸、賈詡)。【司】【部】
 淳于瓊、眭元進、韓莒子、呂威璜、趙叡らを斬り、輜重を破壊(歩騎五千。楽進)。
 袁紹、曹軍本営を攻撃するものの陥とせず、撤退(袁軍・張郃、高覧。曹軍・曹洪)。

45 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 20:33:04
<201年>
・糧秣が不足し、南下して劉表討伐を想起するが、荀ケの諌言を容れて袁紹討伐
 を続行。【司】
・魯国へ分遣した張遼が諸県を平定。東海で叛いた昌豨を攻囲(夏侯淵、張遼)。【司】
 攻囲数ヶ月に至って糧秣が欠乏するものの、張遼が昌豨の誘降に成功。【司】
・夏(四月)、黄河沿岸へ進撃し、倉亭に駐屯する袁紹軍を撃破。袁紹は撤退。【司】【部】
・九月、許に帰還。
 汝南郡の劉備を討伐。劉備、荊州へ遁走。【司】【部】
<202年>
・五月、袁紹が歿する。
・九月〜翌年二月、袁譚の駐屯する黎陽へ進撃(郭嘉、荀攸、張遼、楽進)。【司】
 軍を分遣し、兵站と水路を確保(程c、李典)。【司】
 救援の要請をうけた袁尚、鄴へ審配を派遣し、自身は黎陽へ進軍して曹軍と対峙。
<203年>
・春(三月)、黎陽城外で会戦に至り、袁譚、袁尚の両軍を撃破し、黎陽を攻略。【部】
・四月、追撃して鄴に至り、食料を収奪し、陰安を攻略(張遼、楽進)。許へ帰還。【司】
・高幹、郭援らによって河東が動揺するものの、鍾繇、張既らがこれを鎮定。【司】
 再び河内、河東で叛乱した高幹らを、張既らが平定。【司】
・八月、袁氏の内紛を助長させるべく南下し、西平に至ると、袁尚が袁譚を撃破。
 袁譚は平原に敗走し、曹操へ救援を要請(郭嘉、荀攸)。
・荊州へ派遣した夏侯惇、于禁、李典、夏侯蘭、博望で劉備の伏兵に敗れる。【司】
・十月、黎陽に進駐すると、袁尚が平原の包囲を解き、鄴へ帰還。【司】

46 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 20:33:39
<204年>
・春、黄河を渡河し、水路を構築して兵站を確保。【司】
・二月、袁尚は鄴に審配、蘇由を配して再び平原を攻撃。
 蘇由が降伏し、鄴を攻撃すると、審配は塹壕戦を展開。【司】
 (郭嘉、董昭、張遼、楽進、張郃、徐晃、許褚)
・夏(四月)、曹洪を残して鄴を攻囲しつつ、毛城を攻略して上党からの補給を遮断。
 袁尚麾下の将・沮鵠の邯鄲を攻略。易陽、渉が降伏。【司】【部】
・五〜七月、陣地を構築しつつ水攻めを講じて鄴を封鎖。城兵の過半が餓死。【司】
・七月、鄴の救援に来援した袁尚、攻囲中の曹軍を攻撃するものの大敗。【司】【部】
 袁尚は中山へ遁走し、袁尚軍の輜重を鹵獲。
 張遼を分遣し、趙国、常山を攻略。【司】
 袁譚、冀州東部の袁尚領を攻略し、中山に逃れた袁尚を攻撃。
・八月、鄴の城将・審栄が内応し、鄴が陥落。翌月、領冀州牧に。【司】
 平原へ侵攻し、袁譚は南皮へ逃亡。【司】
・十二月、平原へ入城し、諸県を平定。【司】
<205年>
・春、袁譚の篭もる南皮を攻略し、冀州を平定(郭嘉、張遼、楽進、徐晃、曹純)。
 【司】【部】
 楽進、張郃を分遣し、雍奴を攻略。【司】
・秋(八月)、幽州で叛乱を起こした趙犢、霍奴を討ち、侵入した烏桓を撃退。【司】
・十月、鄴へ帰還。
 并州刺史・高幹が叛いて壺関に進駐し、楽進、李典を派遣するも陥とせず。【司】
<206年>
・春、壺関を攻囲し、三ヶ月の末に陥落(曹仁)。【司】
・秋(八月)、東海の管承を討伐し、淳于に達す(楽進、李典、張郃)。【司】
・再び昌豨が叛き、これを討伐(于禁、夏侯淵、臧覇)。【司】
・済南の黄巾軍・徐和、司馬倶が蜂起し、これを討伐(夏侯淵、臧覇、呂虔)。【司】

47 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 20:34:14
<207年>
・春(二月)、鄴へ帰還。
・夏(五月)、遼西の袁尚・烏桓討伐に出征し、無終に達す。【司】
 (郭嘉、張遼、張郃、徐晃、曹純、牽招)
 海路を開通させて兵站を確保(董昭)。【司】
・秋(七月)、洪水で進軍が困難ななか、郷導を得て五百里を急行し、柳城へ進軍。
・白狼山で袁尚、烏桓の騎兵数万と遭遇。軽装で輜重を欠くものの、敵陣の不備を
 看破し、これを大破。袁尚ら、遼東へ逃走。【司】【部】
・九月、柳城より兵を返す。遼東の公孫康、袁尚らを捕斬。
・十一月、易水に達す。
<208年>
・春、鄴に帰還し、玄武池で水軍を訓練。【司】
・夏(六月)、丞相に。
・秋(七月)、南征し、荊州へ。
・九月、新野に達し、劉jが降伏。
 樊に駐屯していた劉備、抗戦の不利を悟り、襄陽を経て江陵を目指し、関羽に
 水軍を率いさせて先行させる。
 襄陽に達し、劉備の江陵入城を阻止すべく、騎兵を選抜して急行(曹純、文聘)。
 当陽で劉備を捕捉し、大破。張飛に追撃を阻止され、殲滅にいたらず。【司】【部】
 劉備は漢津で関羽と合流し夏口へ(楽進、徐晃、満寵、文聘)。江陵を接収。
 長江を東進し、赤壁で、樊口で劉備と合流した呉軍との緒戦に敗れる。【司】
・十一〜十二月、長江北岸の烏林へ後退し、対岸の陸口に布陣する呉軍との間で
 戦況は膠着。この間、陣中に疫病が蔓延。【司】
・十二月、敗北し、雲夢沢、華容を経由して江陵へ撤退。【司】
 曹仁、徐晃を江陵に、楽進を襄陽に配し、劉巴を長沙、桂陽、零陵へ派遣。【司】
 孫権が合肥に、周瑜が江陵に、張昭が当塗へ侵攻。

48 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 20:34:49
<209年>
・春(三月)、譙に帰還。
・秋(七月)、合肥に張喜を派遣し、攻囲百余日を過ぎた孫権は撤退。【司】
 張遼、楽進、李典を合肥に配する。【司】
・張昭、戦利なく、当塗より撤退。
・一年余の江陵攻囲戦の末、江陵を放棄(曹仁、陳矯、李通、牛金)。
・陳蘭、梅成らが叛乱し、諸将を派遣してこれを討伐。【司】
 (于禁、臧覇、張遼、張郃、牛蓋)
・雷緒が廬江郡で叛き、夏侯淵を派遣して鎮定。【司】
<210年>
・商曜が太原郡で叛き、夏侯淵、徐晃を派遣して鎮定。【司】
<211年>
・三月、夏侯淵を関中へ派遣し、鍾繇と合流させる。【司】
・馬超、韓遂ら関西軍閥が挙兵し、曹仁を派遣。【司】
 馬超ら、潼関に進駐。
・秋(七月)、関中征伐に出征(賈詡、曹仁、夏侯淵、徐晃、朱霊、張郃、許褚)。
 徐晃、朱霊の分隊を蒲阪津から黄河西岸へ派遣し、本隊を渭水北岸へ渡渉させ
 潼関の背後へ迫ろうと試みるものの、馬超らに察知され、危機に陥る。【司】【部】
 偽兵、甬道、浮橋を利用して渭水南岸への渡渉に成功し、陣営を築く。【部】
 馬超らの夜襲を伏兵を用いて撃退。【部】
・九月、賈詡の離間策が利し、会戦に及んで馬超らを大破。【司】【部】
・十月、安定の楊秋を降し、諸将を派遣して一帯を制圧。【司】
 河間で蘇伯、田銀が叛乱を起こすが、曹仁、賈信がこれを討伐。【司】
・十二月、夏侯淵、朱霊、路招を長安に配す。【司】
<212年>
・春、鄴へ帰還。
・冬(十月)、呉征討に出征し、濡須へ。

49 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 20:35:20
<213年>
・春、一月余、濡須を攻撃するものの戦利乏しく撤退。【司】【部】
・夏(四月)、鄴へ帰還。
・九月、再起した馬超が敗れる。【司】
<214年>
・春、夏侯淵が略陽で韓遂らを撃破し、韓遂を西平に、馬超を漢中へ駆逐。
・五月、益州の劉璋が劉備に降伏。
 皖城が孫権の攻撃をうけ陥落。【司】
・秋(七月)、呉を征討。
・冬(十月)、夏侯淵が抱罕を攻略し、涼州を平定。
 利なく、合肥より撤退。【司】【部】
<215年>
・三月、漢中の張魯を討伐。
 (劉曄、辛比、司馬懿、夏侯惇、徐晃、張郃、朱霊、許褚、牽招)
・夏(四〜五月)、軍路を遮る氐族を撃破。【司】
・秋(七月)、陽平関に達す。緒戦で陥とせず、撤退を装いつつ、分隊を派遣して迂回
 させ、奇襲して大破。漢中に達す。【司】【部】
・八月、合肥へ侵攻した孫権に対し、張遼、楽進、李典が諸戦で痛撃。【司】
・十一月、張魯が降伏。
 張郃を巴西へ派遣。【司】
・十二月、夏侯淵を漢中にとどめ、帰還(張郃、徐晃、杜襲、郭淮)。
<216年>
・一月、鄴に帰還。
・冬(十月)、呉征討に出征。
<217年>
・一月、居巣を本営とする。
・二月、濡須を攻撃。【司】【部】
・三月、孫権が臣従し、居巣に夏侯惇、曹仁、張遼、臧覇らを駐屯させ、帰還。【司】
・劉備、漢中征伐の軍を催す。張飛、馬超、呉蘭、雷銅が武都・下弁へ侵入。
 曹洪、曹休を派遣。【司】

50 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 20:36:00
<218年>
・一月、許の叛乱を鎮定。【司】
・三月、曹洪、曹休が張飛らを撃退。【司】
・四月、代郡、上谷で烏桓が叛乱。曹彰、田豫が征伐。【司】
・秋(七月)、漢中へ出征。
・九月、長安へ達す。
・冬(十月)、宛将・侯音、衛開らが叛乱。
<219年>
・春、曹仁、龐悳ら宛の叛乱を鎮定。【司】
・夏侯淵が劉備に敗れる。
・三月、長安を発して斜谷を経て陽平に達するが、劉備が要害に拠り戦況は膠着。
・夏(五月)、長安へ帰還。【司】【部】
・劉備が上庸、房陵を攻略。【司】
・七月、関羽が北上して樊、襄陽を攻囲(曹仁、満寵、龐悳、呂常、董衡)。
 于禁を派遣するものの、長大雨で水没し、壊滅(于禁、東里袞)。【司】
 潁川一帯が動揺。荊州刺史・胡脩、南郷太守・傅方らが離反し、関羽に帰順。【司】
 呉と提携し、関羽の挟撃を企図(司馬懿、蒋済、董昭)。【司】
・九月、魏諷が叛乱をおこすが、これを鎮定。【司】
 徐晃を宛に派遣。【司】
 張遼、兗州刺史・裴潜、豫州刺史・呂貢らを、樊城救援に召喚。【司】
・冬(十月)、徐晃が関羽を撃破し、樊、襄陽を解囲(徐商、呂建、殷署、朱蓋)。【司】

51 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 20:42:04
>>40-50
心の底から乙!!!

52 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 20:44:57
前スレ>>912で引き継ぎを宣言した者です。

君主として麾下に幕僚・部将を従えての戦いが大半であるため、自身が参戦した
戦いに至っては【司】と【部】の両方を添付。
それぞれ、【司】と【部】のいずれに重きをおいて評価するかは個々の事績毎に
検証すべき。
また戦略的思考に基づいた処置や、幕僚らの献言に対する採取決定に関わって
いる局面では【司】を添付。

兵力に関しては記述のあるものは可能な限り記載。
史料上で確認できる参戦・従軍・建策に関わっていた人物はカッコ内にその都度
記載(不足、誤記がある場合は、その都度で要修正)。

政治的背景を無視した単純な事跡の羅列では十分な検証が不可能とみた部分では、
政治的事象も記載。


あらためて曹操の足跡を辿ってみましたが、実に『孫子』を理解しています。
この時代を通じても最高の体現者といっても過言ではないでしょう。
また故事・戦史にも詳しく、それを実に戦訓として活かしてもいます。
曹操自身で語ってもいますが、兵力で劣勢な局面が多く、時に絶望的な戦力差を
覆してもいますし、河北平定までは文句のつけようが無いほどです。

と、かなり長くなりましたが、曹操の事績はこんなところで。
補足、修正等、随時希います。


53 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 20:46:09
>>51
ありがとうございます。

いささか駆け足でまとめましたんで、いずれ粗はでてくるでしょうけど。

54 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 21:10:16
>>40-50
曹操乙!
だけど、所々方面司令官が独自権限&独自判断で動いた事蹟が
曹操の評価になってるのが少々疑問。

・九月、再起した馬超が敗れる。
・合肥へ侵攻した孫権に対し、張遼、楽進、李典が諸戦で痛撃。
ここらへんは、前者は楊阜達と夏侯淵の独自判断だし
後者は完全に張遼達の采配じゃなかろうか。

55 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 21:18:24
>>54
仰るとおり、その点でツッコミをうけるだろうとは思い、自分でも悩みました。
各方面の戦術レベルの戦争に関しては、曹操の功績に帰するのはいささか
牽強付会であったかもしれないですね。

関西の夏侯淵・合肥の張遼に関しては、個々の事績としてみた方が自然で
しょうね。

56 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 21:50:37
>>55
委任した人間って意味では、評価にかかわると思うけど
そうなると今度は、委任した前線司令官の敗北による
マイナス評価も加わって収拾着かなくなるし削った方がいいかもね。
気付いた人が少しっつ指摘しながら、削ってけばいいべ。

とりあえず乙。

57 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 22:18:47
>>54
後者に関しては曹操の命令書どおりに張遼達が動いたわけだから【司】で問題ないでしょ

58 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 22:47:32
∧∧
 (゜∀゜)ズレータ!!

59 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 22:48:04
誤爆…orzスマン

60 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 22:56:45
>>57
合肥の件についてはあるいは思い切って評価対象外でもいい気がする。

61 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 23:01:50
>>40-50
つらつらと見てみると部隊を派遣で【司】+できそうなのは西方の馬超関連、合肥の張遼関連、関羽関連あたりかな?
まぁこの辺は軽く流して戦場での采配関連に絞って話しても問題無さそうな記述量だけどね。

現状は11人で郭淮の人と王渾の人が帰ってきてくれたら13人になる。それまでにあと四五人用意できれば十分だよね?

62 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 23:06:03
いや、合肥は司に加えていいだろう。

実際のキャンペーンには携わらない形での
派兵や委任に関して、どの程度「司」評価とするかどうかは
難しい問題な気がする。
派遣された人間が持節かどうかで判断すればいいのかな?

63 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 23:10:09
>>61
いいと思う。
魏の人間が多いんで、蜀あたりや董卓or呂布あたりが欲しい所かも。

64 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 00:06:52
郭淮
211. 曹操の漢中征伐に随行し、夏侯淵の司馬となり漢中に留まる。(郭淮伝)【評価対象外?】
219. 対劉備
・病気の為、従軍せず。
夏侯淵が劉備に破れ戦死すると敗兵を集め張郃を立てることで取りまとめた。(郭淮伝、張郃伝)【司?】
・勝勢にのる劉備軍に対し的確な備えを施したので劉備はあえて攻めなかった。(郭淮伝)【司】
220. 対蛮族
・左将軍張郃、冠軍将軍楊秋を率いて蛮族を討ち関中を平定。(郭淮伝)【司、部も?】
228. 対諸葛亮
蜀の先陣を務める張郃とともに馬謖、高翔を攻撃。張郃は街亭の馬謖を郭淮は列柳城の高翔をそれぞれ撃ち破った。(郭淮伝)【部】
228?.対蛮族
・朧西の羌族を討つ。(郭淮伝)【部、司も?】
229. 対諸葛亮
・諸葛亮が陰平・武都の2郡攻略の為陳式を派遣。
郭淮はこれを討たんとしたが諸葛亮が建為まで出陣してきた為退却した。(諸葛亮伝)【司ややマイナス評価?】
230. 対魏延
・陽谿で費曜と共に蜀将魏延と会戦するが撃ち破られる。(後主伝、魏延伝)【部マイナス、司も?】
231. 対諸葛亮
・この時、朧右は不作で兵糧が不足していたが、郭淮の働きで兵站を充実させる。(郭淮伝)【司?】
・上ケイで費曜と共に諸葛亮を迎え撃つが撃ち破られた。(諸葛亮伝注)【部マイナス】
234. 対諸葛亮
・諸葛亮の狙いを読み司馬懿に献策、取り入れらる。
果たして諸葛亮はその通り北原に軍を進めてきたので何とか迎撃することが出来た。(郭淮伝)【司&部】
・その後、諸葛亮は軍を西方に動かすがこれを陽動と読み万全な備えを施した為、諸葛亮はあえて攻撃を加えることはしなった。(郭淮伝)【司】

65 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 00:08:04
郭淮その2

238. 対廖化
・守善羌侯宕蕈の陣営を攻撃してきた廖化に対し2将を派遣したがいずれも撃ち破られた。
明帝は軍を分けた郭淮の策を批判。(明帝紀注)【司マイナス】
240. 対姜維
・朧西に姜維が出陣してきたがこれを防ぐ。(郭淮伝)【司、部も?】
・そのまま羌族討伐。(郭淮伝)【部、司も?】
244. 駱谷(興勢)の役
・諸軍を率い先鋒を務めたが形勢不利と判断し撤退したため大敗せずにすんだ。(郭淮伝)【司ややマイナス?ややプラス?】

66 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 00:09:33
郭淮その3(分け方間違えた……)

247. 対姜維&羌族
・朧西などの羌族らが叛乱し蜀軍を引き込んだ。
先に羌族を平らげるべしという意見に対して先に姜維を討つべきだと主張。
姜維は為翅を守る夏侯覇を攻撃したが、郭淮が軍勢を率いて現れたので撤退した。(郭淮伝)
姜維はトウ水の西で郭淮・夏侯覇と合戦した。(姜維伝)
両伝ともに勝ち負けに関しては書かれてないので【司】のみでいいかと。
・返す刀で羌族の餓何・焼戈らを討伐し斬った。(郭淮伝)【司】
248. 対姜維・羌族
・河を根拠として抵抗する残る羌族の頭目蛾遮塞らに対して上流地域で行動すると見せかけひそかに下流から侵攻し大いに撃ち破る。(郭淮伝)【司、部も?】
・また武威を包囲する蛮族の治無戴に対しては本拠地を襲撃しようと軍を動かす。
たまたま治無戴が敗れて帰途についていたので龍夷の北でこれと戦い敗走させた。(郭淮伝)【司、部も?】
・ついでに石頭山の西に居を構える蛮人も討伐し打ち破る。(郭淮伝)【司、部も?】
・姜維は石営に出陣し治無戴を迎え廖化には要害である成重山に留めた。
これに対するに兵を分けることを反対する諸将に対し、夏侯覇に姜維を追わせ自らは廖化を攻撃することを主張。
果たして姜維は廖化の救援の為、軍を引き返し廖化を救うと撤退した。(郭淮伝)【司】
249. 対姜維
・陳泰と策を練り、蜀将句安を降伏させた。(郭淮伝)
姜維は麹山を利用して城を二つ築き句安・李キンらを置き自らは諸郡に侵入した。
郭淮は陳泰の策を採り徐質・ケ艾を派遣し句安らを包囲し兵糧攻め。
姜維は救援のために軍を引き返すと牛頭山から出て陳泰と対峙。
郭淮は陳泰の進言を受け軍を牛頭山へ軍を進め姜維の退路を断ち切ろうとした。
姜維はそれを察知し撤退、残された蜀将句安らは降伏した。(陳泰伝)【司】
・姜維退却後、羌族討伐に向かうがケ艾の進言を受け姜維への備えとしてケ艾を留め置いた。
果たして姜維は廖化と共に再び出撃してきたが備えがあったため事なきを得た。(ケ艾伝)【司?】
253. 対姜維
呉の諸葛恪の動きに呼応して姜維も軍を動かし狄道を包囲した。
司馬師は郭淮・陳泰を派遣しこれを防がせた。姜維はこの動きを察知すると撤退した。(三少帝紀注)【特に評価無しか?】
255. 死去。

67 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 00:47:43
郭淮の抜き出しご苦労様

王渾を投下します。
軍事に関係ない事績は、華麗にスルーしてください。
また漢文は久しぶりなので間違いは訂正してください。

68 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 00:49:46
王渾の事績

字は玄沖
太原郡晋陽の人、父・王昶は魏の司空である。

武帝即位以前は省きます

・司馬炎が禅譲を受けると、揚烈将軍となる
・徐州刺史となる
・徐州刺史の時、飢餓があり王渾は倉を開き助ける、百姓はこれに頼った
・秦始の初め、封邑千八百戸となる
・東中朗将、監淮北諸軍事となる
・転じて征虜将軍、監豫州諸軍事、仮節・領豫州刺史
・王渾、呉との国境を預かり、威信を宣布した。前後に晋に降り附く者、甚だ多かった。

・ 泰始九年秋(273)七月、呉将の薛瑩、魯淑が十万を号し、魯淑は弋陽、薛瑩は新息に向かった
王渾、淮水を密かに渡り不意を付き、薛瑩らは予期できず、王渾はこれを撃破した。【司、部】

・安東将軍、都督揚州諸軍事となり、寿春を鎮守する

・呉人は皖城を大いに耕していた。そのため辺境を害することを計り
王渾は、揚州刺史応綽を派遣、淮南諸軍を統べさせ、これを撃破した
諸処の軍営を破り、穀物百八十余万斛などを焼いた。【司】

69 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 00:50:33
王渾2

呉伐での記述

・咸寧五年(279)大挙、呉伐、王渾は横江に出陣、参軍陳慎、都尉の張喬を派遣、尋陽を攻め
呉の牙門将孔忠を攻撃、これを破る。呉将周興ら五人を獲らえる。【司】
・再び派遣して、呉の護軍李純の立て籠もる城を滅ぼす。【司】
・呉将愈恭を討伐、これを破る。【司】
・多くの所で、(敵を)擒にし斬った。【司】
・呉のレイ武将軍陳代、平虜将軍朱明が降る。
・呉丞相張悌、大将軍孫震らが率いる数万に、王渾は周浚らを派遣、これを破った。
二将を斬り、首級捕虜七千八百級を得る、呉は大いに震撼した。【司】

・孫晧は司徒何禎、建威将軍孫晏と印綬を送って王渾に降伏
・王濬が石頭城に入り、孫晧降伏。その後、王渾と王濬に確執が生じる。

・転じて、征東大将軍
・尚書左僕射を拝し、散騎常侍を加官される
・斉王攸の帰藩について、司馬炎に諫言する…が、受け入れられず
・太煕の初め、司徒となる
・恵帝即位、侍中を加官される
・楚王司馬イが汝南王司馬亮らを殺すと、家門を閉じ司馬イを拒んだ
・楚王司馬イが誅されると、兵を率いて役所に赴く
・録尚書事を加官される
・元康七年に薨ずる。享年七十五。

70 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 01:19:28
乙。

だけど、余計な記述は抜いて書かないか?
討議材料として、確認しやすくするために、わざわざ抜き出してるのに
余計な記事まで入れる必要は無いと思う。

71 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 01:33:54
余計と断言するのはいかがなものかと思うのだけど。

内外の情勢や政治的背景を度外視して軍事を語るなんて不可能。
記述されている勝敗の数だけで優劣を論じてるような住民が、過去に
他のスレでもわんさかいたわけで。

72 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 09:32:22
>字は玄沖
>太原郡晋陽の人、父・王昶は魏の司空である。
>
>武帝即位以前は省きます
>
>・司馬炎が禅譲を受けると、揚烈将軍となる
>・徐州刺史となる
>・徐州刺史の時、飢餓があり王渾は倉を開き助ける、百姓はこれに頼った
>・秦始の初め、封邑千八百戸となる
>・東中朗将、監淮北諸軍事となる
>・転じて征虜将軍、監豫州諸軍事、仮節・領豫州刺史
ここ余計
軍事的に何をしたのか抜き出して検証は後でしようってのがこの抜粋作業の意味なのに
それを無意味な事にして作業だけした気になってるのは労力の無駄だ

73 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 09:36:47
>・孫晧は司徒何禎、建威将軍孫晏と印綬を送って王渾に降伏
>・王濬が石頭城に入り、孫晧降伏。その後、王渾と王濬に確執が生じる。

>・転じて、征東大将軍
>・尚書左僕射を拝し、散騎常侍を加官される
>・斉王攸の帰藩について、司馬炎に諫言する…が、受け入れられず
>・太煕の初め、司徒となる
>・恵帝即位、侍中を加官される
>・楚王司馬イが汝南王司馬亮らを殺すと、家門を閉じ司馬イを拒んだ
>・楚王司馬イが誅されると、兵を率いて役所に赴く
>・録尚書事を加官される
>・元康七年に薨ずる。享年七十五。

こっちも蛇足
内外の情勢や政治的背景は評価をする時に考えればいいのであって今はそれをするための下準備
軍事的な事のみを抜粋すべきだ

74 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 09:50:23
くどくどしくageてまで何を言ってるんだろうな……

さぞかし御立派な意見と考察をしてくれるんだろうけど

75 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 10:43:31
>・転じて征虜将軍、監豫州諸軍事、仮節・領豫州刺史
こういう情報は有り難いな

誰でも読める記述じゃないから、備考は大事だけど
多少絞った方がいいかもね。

76 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 10:58:54
略歴書くんじゃなくて戦争関係の事抜き出せっての

77 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 11:08:45
政治とかの話になったときコピペしやすいのでやれる時にまとめて抜き出しちゃうほうがいいと思う
他の事跡だって何かのときに役に立つかもしれないし
てことで>>68-69GJ(今度暇があったら武帝即位以前もうpして下さると・・・)

で、>>72-73を参考に軍事だけ抜き出してみる

>・王渾、呉との国境を預かり、威信を宣布した。前後に晋に降り附く者、甚だ多かった。

>・ 泰始九年秋(273)七月、呉将の薛瑩、魯淑が十万を号し、魯淑は弋陽、薛瑩は新息に向かった
>王渾、淮水を密かに渡り不意を付き、薛瑩らは予期できず、王渾はこれを撃破した。【司、部】

>・安東将軍、都督揚州諸軍事となり、寿春を鎮守する

>・呉人は皖城を大いに耕していた。そのため辺境を害することを計り
>王渾は、揚州刺史応綽を派遣、淮南諸軍を統べさせ、これを撃破した
>諸処の軍営を破り、穀物百八十余万斛などを焼いた。【司】


78 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 11:11:40
呉伐での記述

>・咸寧五年(279)大挙、呉伐、王渾は横江に出陣、参軍陳慎、都尉の張喬を派遣、尋陽を攻め
>呉の牙門将孔忠を攻撃、これを破る。呉将周興ら五人を獲らえる。【司】
>・再び派遣して、呉の護軍李純の立て籠もる城を滅ぼす。【司】
>・呉将愈恭を討伐、これを破る。【司】
>・多くの所で、(敵を)擒にし斬った。【司】
>・呉のレイ武将軍陳代、平虜将軍朱明が降る。
>・呉丞相張悌、大将軍孫震らが率いる数万に、王渾は周浚らを派遣、これを破った。
>二将を斬り、首級捕虜七千八百級を得る、呉は大いに震撼した。【司】

こんな感じで、事跡うpしてくれる人は全部抜き出してもらって
気づいた人がその中から現在の議論に沿った内容だけ抜き出せばいいのでは
厚意で抜き出してくれてる人に何もかもやらせるってのは申し訳ないし

79 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 11:48:18
劉備(さらに訂正)その1

スウ靖に従い黄巾討伐。(先主伝)【部】
毋丘毅と共に黄巾討伐。(先主伝)【部】
192. 対袁紹?
・高唐の令の時、賊軍に敗れる。(先主伝)
袁術と袁紹が仲違いをし、袁術は公孫瓚に救援を要請、公孫瓚は劉備を高唐に、単経を平原に、陶謙を発干に駐屯させたが、袁紹は曹操と協力しこれらを全て撃ち破った。(武帝紀)
上の記事はこれの事と思われる。【武マイナス】
・公孫サンの別部司馬として対袁紹戦(?)にてたびたび戦功。(先主伝)【部】
194. 対曹操
・劉備は陶謙の将曹豹と共にタンの東に駐屯し曹操を迎え撃つが撃ち破られた。(武帝紀)【部マイナス】
196. 対袁術
・袁術の徐州侵攻を防ぐ為対峙、細かい勝ち負けを繰り返すうちに、本拠地である下ヒが呂布の侵攻を受け失陥したため撤退。(先主伝)【部や司の評価対象外?】
・下ヒに至る頃には軍は散り散り。そこで軍を返して敗軍の兵をかき集めて広陵で袁術と戦い敗れる。(先主伝注)【部マイナス?】
・その後徐州・揚州を荒らす楊奉・韓センを撃破。(先主伝)
劉備は楊奉を誘って会見しそこで捕らえた。韓センは孤立しヘイ州に逃げ帰ろうとしたところ守備隊長に迎え撃たれ死んだ。(董卓伝注)【謀略っぽいのでここでは評価対象外?】
呂布と和睦するが兵を集めだすと再び呂布の攻撃を受け敗走。(先主伝)【部か司のどちらかがマイナス評価?それとも評価対象外?】
198. 対呂布
曹操の庇護下、呂布を攻めるが呂布の将高順に撃ち破られる。(先主伝)【部マイナス評価】
199. 対袁術?
袁術討伐に徐州へ向かうが対戦する前に袁術病死。(先主伝)【評価対象外】
曹操の任命した徐州刺史車冑を討ち徐州を支配下に。(先主伝)【軍事と言うより謀略くさいので評価対象外?】
200. 対曹操
・曹操の派遣した劉岱・王忠を破る。(先主伝)【部】
・曹操が自ら出陣してくると逃走し袁紹の庇護下に。(先主伝)【部マイナス評価】
・袁紹の将文醜と共に5、6千の騎兵でやってきたが、曹操の輜重隊を囮に使った陽動作戦に引っ掛かり兵を分けたところ曹操の六百に見たいない騎兵の強襲を受け敗北。(武帝紀)【部、司共にマイナス?】
・袁紹の別働隊として許の周辺を荒らすも曹仁のために敗走。(先主伝)【部マイナス評価、司はあるいはプラス評価?】

80 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 11:52:47
劉備(さらに訂正)その2

201. 対曹操
・袁紹のもとを離脱し汝南入り。曹操の派遣した蔡陽を撃破。(先主伝)
劉備に呼応した共都を討つために蔡陽を派遣するが共都に撃ち破られた。(武帝紀)
【劉備の司?評価対象外?】
袁紹を撃破した曹操の侵攻を受け劉表を頼り荊州入り。(先主伝)
207. 対曹操
・曹操の北方征伐の隙を突き許を襲撃するべきだと劉表に説くが採り入れられなかった。(先主伝)【司?別項目?】
・博望にて夏侯惇・于禁の侵攻を伏兵を用い撃破。(先主伝)
劉表が劉備を北方の葉まで侵入させると曹操は李典を夏侯惇につけこれを防がせようとした。
劉備はある朝屯営を焼き撤退、追撃してくる夏侯惇を伏兵を持って破った。(李典伝)
前項で劉表は劉備の案を却下したが申し訳程度に軍を動かさせたのであろうか?【司&部】
208. 曹操の荊州侵攻を受け逃走するも呉と結び赤壁にて周瑜らと力をあわせてこれを撃破。
さらに南郡まで進撃、曹操は曹仁を残し撤退。(先主伝)【部、やや司も】
曹操は撤退する時に劉備は自分と同等だが計略を実行するのが遅いと評した。
実際に劉備は曹操が懸念した計略を実行したが時すでに遅かった。(武帝紀注)【司?別項目?】
・周瑜らと共に曹仁を攻めつつ荊州の南の四郡を制圧。(先主伝)【詳細は不明。司?部?】

81 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 11:54:07
劉備(さらに訂正)その3

211. 劉璋の要請を受け益州入りし張魯攻め。しかし実際には張魯を攻めず人心を収攬することに務めた。(先主伝)【部や司の評価対象外?】
212. 劉璋が援軍の要請を受けなかったことを口実に葭萌から引き返し成都へ向けて進軍。
劉璋の白水軍総督の楊懐をだまし討ち。(先主伝)【司?】
フへ侵攻、劉璋の派遣した劉カイらを撃破、更に進軍しラクを包囲。
214. ついにラクを抜き成都を包囲し劉璋の降伏を受ける。(先主伝)【司、部も?】
215. 孫権が荊州に攻めてくると関羽を益陽に入らせると同時に自らは公安まで戻り孫権とにらみ合い。
曹操が漢中に侵攻してきた為、孫権と和睦し軍を引く。(先主伝)【司?】
218. 黄権や法正らの進言を取り上げ漢中侵攻。
219. 陽平で張郃を急襲するが防がれた為、定軍山へ軍を転進し夏侯淵と対峙。
定軍山へ集結した張郃軍が今度は劉備軍に敗れた為に援軍を派遣し手薄になったところを黄忠に攻められ夏侯淵、戦死。(先主伝)【司&部】
曹操が自ら侵攻してくると要害に篭り抵抗、ついに曹操は撤退し漢中支配を確かなものに。(先主伝)【司】
221. 夷陵の戦役。
(省略。呉書に詳しいのでまたの機会に記述を抜き出して見ます。)

82 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 12:59:06
劉備負けすぎw

83 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 13:25:08
>>82
確かに負けも多いけど劉備の恐ろしいところは、
・負けても生き延び
・降っては丁重に扱われ
・野にあっては非常に警戒され
という点だな。

ちょっと気は早いが各能力を仮に特優、優、良、可、不可で分けたら戦術準良、戦略準優くらい?
部隊長、司令官で評価するという今の趣旨とは違うけど。

84 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 15:43:13
出勤前に呂蒙を投下。
上にある呂蒙のは、かなり簡略化されているので…
(というか、呂蒙のを纏めている最中、呉スレのがコピペされたため悔しいだけだったり)
一応、戦力がわかるものは補足として付け加えておいた。

次は誰のをしようかな〜

85 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 15:43:53
呂蒙
参謀的な事績は【司?】としました。

・ケ当が死去し、張昭の推薦にて跡を継ぎ別部司馬となる。

・孫権が継いだ頃、用いることの薄い部隊を併せようと欲した。
その際、呂蒙は影で兵士の赤い服装を用立て、その服を着た兵士達は陳列すると、
よく目立ち、よく練習されていた。孫権は大いに悦び、呂蒙の部隊を増兵した。
【訓練は部で宜しいか?】

・孫権に従って丹楊討伐。向かう所で全てで功績が有った。【部】

・208年。(大将、孫権。先鋒の司令、周瑜に)従って黄祖を征伐。
黄祖は都督の陳就に命じて水戦に出た。
呂蒙は先鋒を指揮し、手ずから陳就の首を斬り、将士は勝ちに乗じ城に進攻した。
黄祖は陳就の死を聞き、城を捨てて逃亡したが、兵士が追ってこれを擒にした。【部】

・この歳に、周瑜や程普と共に烏林にて曹操を破った。(正しくは周瑜と程普の麾下)【部】
赤壁の戦力比は周瑜か曹操の考察に譲る

・(江陵包囲戦にて)周瑜が甘寧を使い、夷陵を占拠したが、
曹仁が兵を分けて夷陵を攻めると、甘寧は困窮し周瑜に救いを求めた。
諸将は兵が少なく、分けるには不足していると言ったが、呂蒙は周瑜と程普に
リョウ統を留め、甘寧を救うことを提言、また周瑜に説いて、三百人を分遣し
険阻な道を断てば、敵が逃走すれば其の馬を得ることが可能と進言。【司?】
・周瑜は之に従い、軍が夷陵に到達すると即日に交戦、敵の過半数を殺した。
敵は夜中に遁走したが、道が塞がれており騎手は皆、馬を捨て歩いて逃走した。
兵士達は追撃し馬三百匹を獲て船に載せて帰還した。【部】
これによって将士の形勢は自ずから倍した。渡江して屯営を立て、交戦し曹仁は退却した。【部】

86 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 15:44:40
呂蒙2

・魯粛が周瑜に代わって陸口に赴任した際、呂蒙の屯営にてのお話。
呂蒙を軽く見ていた魯粛の為に関羽に対する五つの策を立てた。【司?】

・魏は謝奇をキ春典農と為して皖の郷に駐屯させ、謝奇はたびたび辺境で荒らしていた。
呂蒙は人を使って謝奇を誘ったが、従わなかったので隙を伺い襲撃した。
謝奇は縮み上がり、その部下(部曲?)の孫子才、宋豪らは呂蒙の元に降った。【司】【部】

・孫権に従い濡須にて曹操をふせいだ。たびたび奇計を進言。【司?】【部】
又、河口を夾んで塢を築くよう孫権に勧めて、それにより備えが堅くなり、
曹操は江を下ることが出来なくなり退却した。【司?】
『呉録に曰わく』孫権が塢を作ろうと欲すると、諸将は皆、必要ないと言った。
呂蒙は、諸将らに理路整然と反論して孫権を後押しした。

・曹操は朱光を遣わして廬江太守とし皖に駐屯させ大いに田を開かせた。
又、ハ陽の賊のお頭に誘い招き、内応させようとした。
呂蒙は「皖の田は肥沃、もし一度、収穫すれば奴らの勢力は必ず増え、
これが数年続けば、曹操はその本性を見せましょう。宜しく早急にこれを除くべきです」
そしてつぶさに情況を上陳した。これにより孫権は皖に親征した。【司?】
・孫権は諸将と引見し計策を問うた。呂蒙は甘寧を推薦し升城督と為し、
前線の攻撃を率いさせ、呂蒙は精鋭を以て之に続く…という作戦を立てた。【司?】
早朝、進攻し呂蒙は枹と鼓を手に採り、士卒は皆、威勢良く城壁を昇り、食事時には敵を破った。
この時、既に張遼は夾石に至っていたが城が抜かれたと聞くと退去した。【司】【部】
・『リョウ統伝』この後、呂蒙らと西に進み三郡を取った。【司】【部】

・この後、廬陵で反乱があった。諸将はこれを討つことが出来なかった。
呂蒙に命令が下り、呂蒙は首領を誅し、他の者は釈放した。【司】【部】

87 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 15:46:32
呂蒙3

建安十九年(214)の荊州攻略
・孫権の命により長沙、桂陽の二郡を書によって降伏させる。
また劉備が公安に到着するとカク普を降伏させて、孫皎を後に残し益陽に向かった【司】
戦力は魯粛一万、呂蒙二万、関羽三万、劉備五万。

合肥の戦い 建安二十年(215)
・合肥から撤兵の際、孫権の軍が張遼に襲撃されたが呂蒙とリョウ統は孫権と命懸けで護った。【部】
『張遼伝』によると孫権十万、合肥七千。

濡須の戦い 建安二十二年(217)
・曹操が大軍で濡須に攻め寄せた。
この時、呂蒙は督となって前に築いた濡須塢に弩一万を置いて防がせた。
曹操の先鋒が屯営を築く前に攻めこれを破る。【司】【部】
『甘寧伝の江表伝』によると曹操は歩騎四十万、孫権七万。
『夏侯惇伝』では戦役後、夏侯惇が二十六軍で居巣に駐屯。

孫権に荊州攻略の戦略と作戦を提示。また長江流域割拠を提言。【司?】
内容は長いので省きます。

建安二十四年(219)の荊州攻略
・関羽が北上すると、呂蒙は病気を利用して関羽を油断させる計略を立てる。
『陸遜伝』また陸遜の計略と陸伯言を代理の司令官として用いる。【司?】
・関羽が兵を北上させ兵糧を奪取すると、先鋒として尋陽にいたり、
精兵船中に隠し商人になりすまして、長江の屯所を襲った。
このため関羽は、呉のことを知ることが出来なかった。【司】【部】
・南郡に至り、士仁と麋芳が降服。『呉書』では虞翻に命じて士仁を降服させた。

この年、死去。『朱然伝』で朱然を江陵太守に推挙。

評とかは、取り敢えず必要ないかな。

88 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/09(木) 16:43:33
乙!

89 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 11:12:46
あと何人分か集まったら、評価開始していいんじゃないか?


90 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 12:06:22
>>89
具体的にどう評価していく?
絶対値は出せないから挙げられた中で事績を比較して何らかの上下の基準をもって相対化していくの?

91 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 12:30:40
>>90
俺みたいな馬鹿のためにもうちょと易しい表現で言い直してくれ!

92 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 13:08:01
武勇に似た形でいいんじゃない?
甲乙丙丁みたいな感じでさ

93 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 16:24:15
>>90
それしか無いような気がする。
前の方で誰かが言ってたけど、まずは代表的な事蹟でもって、
おおまかに上下を決めてって、その後細かい事蹟で補正してく形かな。

>>91
いきなり数値は出せないから、まずは人物同士を比べてランキングしてって
Aクラス=100〜98 Bクラス97〜95みたいな感じで割り振ってくって事
…だと思う。

94 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 17:25:30
一番わかり単純な例から考えていくと、できるだけ詳しく見ていった時に、

従軍して・・・                                   ↓
大活躍・勝利に大きく貢献≧負けたけど活躍した>勝った≧負けた>勝ったけど足引っ張った≧敗因を作った・足を引っ張った。
従軍の場合勝った・負けたはあんまり関係ない気もするけど似たような内容なら勝った方をより評価してもいいかな?

部隊長としての任務を・・・                                   ↓
不利を覆して成功>成功>不利な状態で善戦したが失敗=有利な状態で成功>失敗>有利な状態で失敗
一応部隊を率いる責任者なので結果重視。あとは個別内容で+したり-したり。

司令官として・・・
勝った>負けた
これを大前提に合戦全体を検証する。

ケースバイケースではあるけど目安ぐらいにはならないかな?矢印の所あたりが+-の分かれ目のイメージ。

95 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 19:06:36
勝敗だけで見てくと、二分の一で評価が下がるからなぁ。
勝率悪い人物は、何もしてない人物より低評価になりそうだ…

指揮官or部隊長経験の多い(長い)人物や、
規模の大きい戦(5〜10万人規模?)を管轄した人物は、
それだけで多少+に考えても良いぐらいなんじゃなかろうか。

96 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 19:13:10
>>95
経験が長い人は同意。戦乱の世を前線で生き残ったんだからそれだけで評価に値する。でも規模の大きい戦で+はどうだろうな・・・

97 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 19:36:12
ハン城の曹仁は司令官扱いだろう。徐晃の援軍用いてほぼ独断で関羽撃退したんだし。

98 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 20:31:28
>>97
徐晃が関羽を撃破してくれたおかげで突破できただけだよ。
司令官としては援軍が来てくれるまで持ちこたえたということに関してはあるいは評価できるかもしれない。
しかしそれ以外は無策だしそんなに評価は出来ないだろ。無能からは程遠いのは確かだけどな。

99 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 22:18:28
確かにそうかも知れないけど、荊州一帯を任せられて、守り抜いたのは凄いと思うが。
しかも無策と言うけど、漢中で負けた直後で、関羽に比べて戦力的には大きく劣って
いたんだから、それを無策で片付けるのは適切だろうか?しかも徐晃伝じゃ徐晃単独
で撃破してる感じだけど、趙ゲン伝とか見ると、関羽撃破に曹仁も大きく絡んでるよう
だし、むしろウ禁全滅という非常事態にも関わらず、兵卒を激励して、徐晃の援軍と
一緒に関羽撃破してるんだから、評価できないというのは俺は納得いかんな。
でもあんたの意見も一理あるとは思うけどね。

100 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 23:03:28
>>99
> 荊州一帯を任せられて、守り抜いたのは凄いと思うが。

それは否定しない。
否定しないがその中で曹仁の功として挙げられるのは絶望的な状況で持ちこたえたことのみ。
(まあそれでも十分凄いが)
それ以外では関羽に樊城に押し込められて具体的な打開策は何も取れてない。
漢水の氾濫という災害を考慮したとしてもにそれに対し準備もとってない。
この漢水の氾濫は突発的とも取れるが揚州刺史の温恢が漢水の水かさが増してるのに曹仁がなんら対策を取ってないことを懸念してる。
つまり氾濫の兆候があり時間がありながらそれに対する備えを曹仁が怠っていたことが分かる。
厳しい言い方だけどね。

結局曹仁は荊州の司令官であったが、荊州を守りきったのは司令官としての能力より部隊長としての能力のおかげだと思うよ。
もちろん満寵の献策を取り上げたことを曹仁の司令官としての能力として重視するという意見もあるかとは思うけどね。

101 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 23:07:58
関羽討伐のために七軍を率いて樊城に居た曹仁の戦力が小さいわけない。
無抵抗に篭城ってのも不自然だし。
野戦で負けて押し込まれたんじゃないねか?

102 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 23:11:29
>>99
あと「徐晃の援軍と一緒に関羽撃破してる」といのはちょっと違うと思うよ。
徐晃が関羽を撃破し、そのあと浮き足立つ関羽軍の包囲網を破るのは一緒にとは言えない気がする。
まああくまでニュアンス以上の違和感はないけど。

103 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 23:36:54
温恢伝見たけどその通りだね。あと俺は関羽がハン城を急襲したという記事を読んだ
覚えがあるな。あと七軍ってどこ行ったんだろう?城兵は数千人だったらしいけど。

104 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 23:59:51
少し論議になっている曹仁の件ですが……

この時代、単位として用いられる一軍の兵力は数千というところです。
「曹仁伝」では曹仁は七軍を統轄していたとあり、樊城の戦力は数千とありますが、
対岸の襄陽の戦力、さらに城外のホウ悳の戦力、また篭城戦以前の宛の侯音・
衛開の叛乱鎮定にと割かれ、曹仁時直の余剰戦力がさほどあったとは思えません。
また、漢中失陥後に、劉封や孟達が上庸、房陵へ攻撃をかけて攻略している事も
あり、戦力を一箇所に集中させておけるほど情勢が安定してはいなかったのだ
ろうと思えます。

105 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/11(土) 00:27:41
とするとやはり曹仁は戦術的に篭城を選択せざるを得なかったようだね。

106 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/11(土) 03:20:14
ん・・・?

107 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/11(土) 09:27:45
援軍待ちで死守なのは無策なの?

108 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/11(土) 09:36:45
素人考えだけど、妥当な選択だと思うな
他の「こうすれば良かった」なんていう戦術は見えてこないし

109 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/11(土) 11:07:54
どうみても無策ではないだろ。援軍来るあてもないなら、無策もいい所だが、大きな
戦力がない状況なら仕方ないだろ。援軍のウ禁全滅という非常事態を己の鼓舞で凌いだのは
十分評価できるね。夏侯淵は曹洪の五万の援軍にも関わらず、負けて、漢中取られた
が曹仁は淵とは違い、撃退に成功してるわけだし。

110 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/11(土) 11:27:47
曹洪の戦力は五万もなかったけど

111 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/11(土) 12:38:41
下弁で五万いたはずだが。

112 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/11(土) 12:45:15
演義の数字をもちだしてどうなるんだか

113 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/11(土) 13:09:32
じゃあいくらだよ?

114 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/11(土) 14:19:22
演義って、いつから史料として認知されたの?
正史のように史料批判に晒されたことがあるのだろうか?

115 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/11(土) 14:34:09
>>114
勘違いしてる気がするけど、『演義』は資料になることはあって史料にはならない。

116 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/11(土) 14:39:43
>>115
しりょう ―れう 1 【史料】
歴史を認識する素材。文献・遺物・遺跡・図像・口頭伝承など。

史書だけが史料じゃないよ。
演義が『史学の資料』=『史料』となるの?
そして史料批判されたのか?を聞いているの

117 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/11(土) 14:49:04
スレタイを読むか、演義が「正史」の一つに数えられてるという証拠を出してくれ。

118 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/11(土) 15:26:35
つうかスレ違いの話だというに……

119 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/12(日) 19:45:04
レスがつかなくなったな。

120 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/12(日) 20:05:30
いや、なんかレスしづらい雰囲気だったから・・・
まだ司馬懿・陸遜等の大物が来てないが後のお楽しみと言う事で始めちゃう?

121 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/12(日) 20:07:52
>>120
まとめてる奴がいなければ、いくら待っても来ないと思う

122 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/12(日) 20:52:12
じゃあとりあえず樊城をめぐる関羽と曹仁の攻防戦に限定してそれに関連した武将の能力について討論してみようか。

・曹仁、荊州の鎮圧に樊へ。
・218冬10月、侯温が宛を根城に叛乱。
・219春正月、曹仁、侯温の乱を鎮圧し樊へ戻る。
・219秋7月、関羽が樊城に軍を進めてくると、曹操、曹仁の援軍に于禁を派遣。
・219秋8月、漢水氾濫し、于禁、関羽に降伏。曹仁の別働隊として動いていた龐徳、関羽に斬られる。
・関羽、樊城を包囲。また襄陽も別軍を用い包囲。
・関羽、周辺の賊をてなづける。
・関羽、呉の計略に乗り公安や南郡の守備兵を樊城に向ける。
・曹操、曹仁の援軍に徐晃を派遣。
・孫権が関羽の背後を突こうとしてることを関羽の陣と曹仁の陣に知らせる。
・219冬10月?、徐晃、関羽を撃破。曹仁、包囲網を破る。
・関羽、退却。
・220春正月、関羽、呉軍に捕らえられ斬られる。

大体の流れはこんな感じかな?
順序が逆とか抜けてるものもあるかもしれない。

問題は曹仁が関羽の北上を受けて樊城に包囲されるまで何をしてたか?だな。

123 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/12(日) 21:36:57
>>122
樊城の攻囲戦は、漢中の情勢を度外視して検証する事はできないと思います。

218年の七月に曹操自身が大軍を率いて漢中へ赴いており、219年の春から
少なくとも三月以前には夏侯淵が討たれ、更に曹操は五月まで戦況を膠着させた
まま劉備と対峙しています。
またこの直後(関羽北上の少し前)に、劉備は劉封や孟達らを荊州西北部の
上庸、房陵に進出させ、これの制圧に成功しています。
このあたりの情勢の推移を念頭に置かなければ、関羽北上が時宜に適ったもの
であったかどうか、や、曹仁の掌握していた戦力の程度、などを分析するにも
不都合が生じてくると思います。

また、曹操は徐晃を直掩として派遣する一方で、張遼やエン州刺史の裴潜、
豫州刺史の呂貢らを樊城救援に召喚するなどしていて、戦力の不足と、この時期
対呉情勢が比較的穏やかであった点などもあります。

また徐晃の進撃が当初は兵力の不足などで思う様にいかなかっと事、関羽が
陣営を列ねて徐晃の南下に備えていながら、迂回と陽動を駆使した徐晃の
巧妙な用兵に翻弄されて大破されてる点も検証の対象でしょう。

124 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/12(日) 21:44:54
つまり諸軍を指揮して侯温を斬った後、城内に数千の兵しか居なかったのは出撃して負けたんじゃないか?って説のことかい?

125 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/12(日) 22:02:31
124は122へのレスね。
>>123
呉が魏に降服したのが217年の春だから、対呉の戦線は小康状態と言えるかもね。
徐晃の軍が少なかったことについては、直前に大軍を送ったにも関わらず全滅したため余剰戦力が少なかったのかな?

126 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/12(日) 22:38:01
>>125
そうですね。
219年の九月に魏諷が叛乱を起こしています。
これを踏まえても、曹操がこれ以上は中央軍を割く事に懸念があったという
可能性もありますし、関羽が于禁を降伏させ、荊州一帯で関羽に帰順する者も
生まれ、その中には荊州刺史の胡脩や、南郷太守の傅方らまでもがいたという
事で、おそらく荊州一帯でも組織的な防衛対策を施せないほどに指揮系統や
戦力に不都合が生じていたとも推測できますね。

また、曹操が増援として徐晃に合流させた将の中で、殷署は平難将軍として
主に関西で関中護軍の趙儼麾下で戦っていた人物ですし、趙儼ともども撤兵
させた漢中の兵力を転用して投入したんじゃないでしょうか。

127 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/12(日) 22:58:20
>>123
> 関羽北上が時宜に適ったものであったかどうか

時宜に適ったものかどうかはにわかに判断するのは難しい。
個人的には関羽は例の廬中策の通りに実行したのだと思う。節も与えられてることだし。
北上は呉に対する備えを解かなかったら致命的なものにはならなかったとも思う。
徐晃には敗れたが曹仁を追い詰め于禁を虜にした。実質的にはともかくある意味大戦果だったと思うよ。

> 曹仁の掌握していた戦力の程度

曹仁の直接率いる軍勢が思いの外少なかったのは兵を分散させる「愚」(断定は出来ないけど)を犯してしまったという見方も出来る。
まあ検証は必要だね。
そのための判断材料となるような記述を具体的に挙げてくれると助かります。

>>124
> つまり諸軍を指揮して侯温を斬った後、城内に数千の兵しか居なかったのは出撃して負けたんじゃないか?

いや必ずしもそうだと思うわけじゃなくて……
漢水が氾濫する前から兵力差があったので援軍を恃んで篭城を選んだのか否か。
その辺の事情がよくわからないということ。

> 徐晃の軍が少なかったことについては、直前に大軍を送ったにも関わらず全滅したため余剰戦力が少なかったのかな?

それもあろうが関羽が公安や南郡の守備兵まで動員してきたことも関係あるんじゃないかな?

128 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/12(日) 23:37:33
>>127
>関羽は例の廬中策の通りに実行したのだと思う

この点に関していえば、論外に思えます。
劉備は211年の入蜀から219年の漢中攻略戦までの8年間を戦い続けた
といってもよく、「楊洪伝」あたりをみてもそうとうに軍資を費やしていたと
推測できます。
また漢中王に即いて間もない時期で内治に多忙であろう事は容易に推測
できます。
とてもではありませんが、荊州での関羽の軍事行動に呼応できるほど余裕が
あったとは思えないですね。

>節も与えられてることだし

これに関して、215年の分割協定に先立って呉の軍勢が荊州南部に侵入して
軍事的な緊張が生じている件から、荊州が益州から遠く半ば独立した軍事裁量
をもとめられる局面が想定されるであろう事、また馬超や黄忠の昇進に伴う
位階の調整、といった面の方が大きいと思います。
これを関羽の北上と直結させられるかは微妙に感じます。



129 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/12(日) 23:54:40
漢中平定直後に上庸を狙うなどの動きもあったので余力が無かったわけではないだろうけど、劉備本人が成都に戻り、張飛では無く
魏延を漢中太守にするなど当時に長安を狙う気は薄そうに思えるね。

130 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/13(月) 00:12:46
>>128
> この点に関していえば、論外に思えます。

いや蜀全体がその方針で動いたということではなく、
関羽の(おそらく)独断の理由の一つがそれではないか?ということ。
それ以上でもそれ以下でもないです。

関羽の北上は直接的には荊州を鎮撫に来た曹仁に対抗する動きだったと思う。
が、それが大きくなりすぎた理由の一つに廬中策の件があったんじゃないかな?

劉備側としては連動させてるわけではないが、黙認してるっていう感じ。
後に劉封が関羽に援軍を送らなかったことを責められてるけどこれは口実くさい。

131 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/13(月) 04:50:08
どうせならついでに関羽や徐晃の記述も抜き出して
同時検討キボンヌ。

せっかくの討論を有効に反映させるためにもぜひ。

132 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/13(月) 09:33:53
とりあえず徐晃。
前段
・曹仁の援軍として曹操に派遣され宛に駐屯。
・漢水が氾濫し、関羽により于禁は捕らえられ曹仁は樊城に押し込められる。
・徐晃、陽陵陂まで前進し、後発の徐商らと合流。

偃城攻め
・徐晃、敵の背後を断ち切ろうとすると偃城の賊(関羽の軍か関羽に呼応した賊の一つか不明)は退却。

対関羽
・徐晃の元にさらに殷署ら合計12の屯営が合流。
・徐晃、関羽軍から三丈ばかり離れたところまで前進。
(三丈ってどれくらいの距離?一丈=3mくらいとは明らかに違う)
・徐晃、関羽軍の屯営の一つ囲頭を攻撃するフリをしてもう一つの屯営四冢を攻撃。
・関羽、包囲軍から約5,000の歩兵騎兵を率い徐晃軍に攻撃を仕掛けるが退却、追撃を受け撃ち破られた。

とりあえず論評は後回し。

133 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/14(火) 07:49:55
結論の無い議論はオタクの知識疲労でしかないな

134 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/14(火) 14:12:16
いきなり結論から。(関羽北上戦限定)
【曹仁】
・司令官的能力
撤退しないという判断は正解。
だが篭城以外の選択肢を削られるような状況に追い込まれたのは大きくマイナス。
・部隊長的能力
部隊長としての見せ場はなかった。強いて言えば兵の士気をなんとか維持し続けたことか。
∴部=評価外、司=±0orややマイナス。

【徐晃】
・司令官的能力
彼我の戦力差を見極め戦力が整うまで戦いを控えた点はプラス。
偃城攻め、体関羽戦などは陽動を使った用兵は評価。
・部隊長的能力
関羽を会戦で撃ち破る。
∴部=加点、司=加点。

【関羽】
・司令官的能力
状況を巧みに利用した点(漢中の長期戦、魏の政情不安定、漢水の氾濫)は大きく加点。
だが状況の変化(呉が背後をつく動きを起こした)にもかかわらず目前の戦場に固執してしまった点は大きくマイナス。
・部隊長的能力
徐晃に撃ち破られる。
∴部=やや減点、司=功罪半ばといった感じだが、結果を考慮してやや大きめに減点か?

ただ曹仁、徐晃、関羽に求められたものはそれぞれ質やレベルにおいて異なるものなのに司令官的能力と一括りにして良いものかやや疑問。
他の項目で補完すべきか?

135 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/14(火) 18:11:20
結論の内容には賛同する所大だけど
減点方式で採点していったら、戦闘ごとに誰かしらマイナスされていく事になり
"何もしてない奴"の方が評価されるような結果にならないかい?

136 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/14(火) 21:27:43
長い篭城で消耗した兵を率いて関羽の包囲網を撃破した曹仁に部隊長の見せ場なしは
酷評だろ。

137 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/14(火) 21:43:09
やったこと・挙げた功績は素直に+してあげたいが、減点は難しいな。
例えば今回の関羽の場合、時期を見て北上したこと、北方の盗賊を使って錯乱、水害で孤立した(と思われる)ホウ徳をすかさず叩く
など功績があり、対徐晃も最初は兵が少ないため関羽に対抗できず、曹操が幾度も増援を送ってきた結果敗れた。
多分呉に対する守備兵を減らしたのも、援軍を受ける徐晃に対応するために必要だったのでは?とも思う。
この判断は結果として大失敗を招いたが、これは呂蒙・陸遜等が細心の注意を払って行った行動だったし、配下の糜芳や士仁、
劉封と孟達など支援もままならない中での行動で、もはや個人では対応できないレベルだったのでは?と援護したい。
開戦前に政治的失敗があったのは確かだけど、純軍事的に考えれば部・司ともに評価できる戦いだったのでは・・・

138 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/14(火) 21:49:54
曹仁の司には満寵の、部には徐晃の活躍も無視できないが、曹仁自身の奮戦も重要な要素だと思う。

139 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/14(火) 22:19:57
激しく同意。司令官はまず負けずに拠点守るのが絶対だし。評価が難しいのがハン城の
初期の曹仁の行動だな。

140 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/14(火) 22:52:59
>>136
どうだろうねえ?
曹仁が関羽の包囲網を撃ち破った時には、
既に関羽は徐晃に撃ち破られてるわけだし、
呉が南郡を占拠した(しつつある?)という情報も入ってる。
浮き足立つ包囲網を突破してもあまり評価できない気がする。

>>139
しかし曹仁は荊州を鎮撫を目的として来てる訳だから、
いろいろ理由があるにせよ、
「篭城しか出来ませんでした。でも樊城は死守しました」
じゃああまり高い評価はやれん気はする。

ただまあいずれにしろ、どちらも無能な武将では到底なしえないことはたしかだろう。

141 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/14(火) 22:58:12
140の補足。
つまり曹仁のレベルが高いからこそつけられるケチであって、並みの武将なら素直にいい評価を与えてもいいかなとも思う。
考え方変かな?

142 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/14(火) 23:05:43
満寵伝を見るに、関羽の攻撃は苛烈で、城壁は水害のため度々崩れ、かなりの劣勢だったのは間違いない。またもし樊城が落ちれば
関羽の憂いを断たれ、もう取り返すことはできないだろうとも言われているので、あそこでの曹仁の奮戦は関羽の敗因の一つではあったと思う。

143 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/14(火) 23:08:31
>>142
> あそこでの曹仁の奮戦は関羽の敗因の一つではあったと思う。

それはその通りだな。するとその場合は司令官と部隊長、どちらの能力にカウントされるべきかな?

144 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/14(火) 23:12:50
ハン城は魏の南方の要地で、魏の荊州領の最重要拠点だから、司令官でいいだろ。

145 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/14(火) 23:20:28
まああそこで曹仁が引いた場合、万全の状態でまだ兵の集結してない徐晃と軍を構えるわけで、徐晃を破るとこまではいけたかも。
でも結局呉に後ろを取られるから進軍はそこまでだな。捕まることもなかったろうが。

>>143
満寵の進言を容れた判断は司、実際に守りきった能力は部じゃないかな?

146 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 10:23:39
735 名前:日和見宰相 ◆7rAzqBFcf. [sage] 投稿日:2005/06/15(水) 21:17:44
三戦は新時代に突入したんだよ
昔を懐かしむような馬鹿はもう三戦に必要ないといえよう

737 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2005/06/15(水) 21:20:12
日和見よ何調子に乗ってんだ?
三戦の新時代にお前のようなヘタレな厨房が必要なのか?

739 名前:日和見宰相 ◆7rAzqBFcf. [sage] 投稿日:2005/06/15(水) 21:21:28
むしろ俺が率先して新時代に導くwwwwwww

741 名前:日和見宰相 ◆7rAzqBFcf. [sage] 投稿日:2005/06/15(水) 21:23:02
俺は日和見様だwwwwwwww

742 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2005/06/15(水) 21:24:13
お前に誰がついて行く?
魔玉に煽られ厨房ぶりを発揮して無様な姿を披露した貴様に!

743 名前:日和見宰相 ◆7rAzqBFcf. [sage] 投稿日:2005/06/15(水) 21:24:40
だれも着いて来ないでいいwwwwwwwwww

747 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2005/06/15(水) 21:26:58
新時代きづくと豪語しておいて誰もついてこなくて良いとは何だ?
さっきと言ってる事が違うと思うが…

749 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2005/06/15(水) 21:28:26
厨房が支離滅裂になってる
お前は三戦板には必要ない存在のようだ

日和見宰相とは芸も知識も無く住人に煽られ池沼・厨房・基地外・馬鹿・口先大王・知的障害すべてを
出すもなす術なしで叩かれた大馬鹿の糞コテです
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1118594252/545

147 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 15:50:15
出てきた人を強引にまとめて議論を活性化策
名前の後ろの(+)はその中でも優秀という評価
段階を減らす為
意見があればどうぞ

【司令部的な強さ】
S:とりあえず空欄
A:曹操、呂蒙、諸葛亮、周瑜、
B:王渾+、馬超、郭淮、
C:劉備+、ケ艾+、曹仁+、孫権、于禁、朱然
D:戦場に出た事のある人物(武官系
E:戦場に出た事の無い人物(文官系
F:

【部隊長的な強さ】
S:とりあえず空欄
A:曹操+、曹仁、ケ艾
B:于禁、馬超、呂蒙、周瑜、朱然、郭淮
C:劉備+、諸葛亮、孫権、王渾
D:戦場に出た事のある人物(武官系
E:戦場に出た事の無い人物(文官系
F:

【個人的な強さ】
S:許楮+、典偉+、関羽、孫策、太史慈、ホウ徳、呂布
A:張遼、張飛、孫堅、周泰、董襲、甘寧、凌統、丁奉
B:曹操+、曹仁+、公孫賛、呂蒙、董卓、曹彰、程普、黄蓋、韓当、魏延、黄忠、楽進、凌操 趙雲
C:曹丕、夏侯惇、韓浩、史渙、曹真、ビ竺、孫権、魯粛、劉曄、劉備、徐庶、周瑜、徐盛、蔵覇、馬超、虞翻、郭、陳武、楽進、李通 于禁 蒋欽
D:戦場に出た事のある人物(武官系
E:戦場に出た事の無い人物(文官系
F:杜預先生、厳駿


148 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 16:21:16
・・・・・・

149 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 16:34:17
>>148
でもよ停滞するよりよくねーか?
議論と言っても上でしてるのは結論の出さない雑談で終わってるし
誰かが評価しないとおわらんよ?
能力値決めのスレじゃなく正史を雑談するスレならわかるんだが

150 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 16:41:13
とりあえず呂布がSってのが気にいらない

151 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 16:48:48
いや、【個人的な強さ】はもういいよ・・・
なんでわざわざ引っ張り出してきたのかも意味不明

152 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 16:53:56
しかも楽進ふたりいるし

153 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 17:21:31
>>151
個人的な強さは分けるときの目安の為に出した。

>>152
気付かなかったわい、3で既に二人居るのな。

154 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 17:28:12
>>149
「終わらない」というよりも「始まらない」が正解

155 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 17:54:12
>D:戦場に出た事のある人物(武官系
>E:戦場に出た事の無い人物(文官系

「不明」だろ。
無理やり入れる必要はない。

156 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 18:32:12
議論を広げるための間口として、かなり有り難い
こっからどう云々してくかだな…。

とりあえず、
【司令部的な強さ】
>A:曹操、呂蒙、諸葛亮、周瑜、
ここらへんの比較からか?+や-付くのか、SやBへの移動があるか。

157 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 18:42:15
>>156
まずは大まかに分けていくべきかと思う
細かな査定は置いて置いて、気になる評価に異を唱えるなり
人物を追加したり等をするべきかと。

人物追加をする場合は、事績と供に、断定評価を入れる方がよろしいでしょう。
評価を入れれば、それは高い、低いと議論ができますので。
入れないとせっかくの議論が雑談になりますゆえ。

158 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 18:56:06
>>155
武官系・文官系のくくりはあれだが全く記述がない奴よりちょっとでもある奴の方が評価できるように思う。具体的には張昭とか。
それと147のは条件厳しすぎて殆どの武将がDクラスになっちゃう気がするよ。

159 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 19:02:10
とりあえずちゃんと人数入れてやらないと諸葛亮や劉備とかが不憫すぎる気もするが、大雑把でもいいからちゃんと現状を整理するところ
から始めた方がいいんじゃない?現状の奴をA・B・C(上中下)に別けたらどんな感じか。+-はまだ早いよ。

160 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 19:26:05
じゃあとりあえず司令官馬超(B?)とケ艾(C?)に異議を唱えてみる。
数回に渡り姜維の考えを読み翻弄し、まさかの山越えで蜀を滅ぼしたケ艾と、十万をもって挑むも曹操に翻弄された馬超だと、
せいぜい互角かケ艾の方が上に思える。

161 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 19:32:25
>>160
たしかにそうだね。
でもケ艾の山越えは司令部というよりも、不可能を可能にした
プロジェクトXに出てきそうな部隊長としての統率力かと思う。


162 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 19:35:00
孫権が同位置にいるから混乱するんだろ

163 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 19:57:29
まあ、ケ艾がCとなると、大半の人物がD以下になるのは確定的だしな。

164 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 20:46:52
【司令部的な強さ】
S:とりあえず空欄
A:曹操、呂蒙、諸葛亮、周瑜、
B:王渾、ケ艾、郭淮、
C:劉備、馬超、曹仁
D:孫権、于禁、朱然
E:戦場に出た事のある人物(武官系
F:戦場に出た事の無い人物(文官系
G:

【部隊長的な強さ】
S:とりあえず空欄
A:曹操、曹仁、ケ艾
B:于禁、馬超、呂蒙、朱然
C:周瑜、郭淮、劉備、諸葛亮
D:孫権、王渾
E:戦場に出た事のある人物(武官系
F:戦場に出た事の無い人物(文官系
G:

これでどう?まだ名将ぞろいで別けづらいね。

165 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 22:17:44
朱然は江陵の城を五千で曹真等名将から防衛した戦いもそうだが、李興等との戦いで夜襲かけて撃退、曹丕の動きを読むなど中々の
知恵も見せてるしCに昇格できそうに思うけどな。

166 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/17(金) 01:31:10
>>164
諸葛亮の【部隊長的な強さ】は少なくともBはあると思う。
張郃、王双を討ち取ってるし。
一方で【司令部的な強さ】では若干ミスが目立つ気がするが…

167 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/17(金) 02:08:40
トウ艾の司令Bは賛成。(部隊長も今のままAでいいと思う。)

んでも、馬超がCってのはちと違和感
連合の瓦解による敗北は大きなマイナスではあるけど
連合まとめて長安越えて(落として?)潼関に布陣したあたりの司令能力は評価出来るし、
「曹操の渡河を阻止して、河東での穀物切れを待つ」っていう作戦立案自体は
理にかなってると思われる。
勢力としての基幹そのものが堅いとは言えない状況で(その後の再起も含めて)
随分と実績残せてる方だと思うよ。

168 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/17(金) 03:18:47
Cでも充分高評価だと思う
だってこれ普通のレベルがEでしょ
D>まあ優秀 C>優秀 B>非常に優秀 A>・・・
というふうに解釈してるんだが

169 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/17(金) 03:30:07
孫権の司令官的強さがDっていうのは納得いかん。
軍を率いて、ほとんど勝ったためしがないのに。

170 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/17(金) 03:40:48
>>168
Eを普通と設定したら、
D>ちょっと出来る C>まあ優秀 B>優秀 A>非常に優秀 S>トップ
じゃないか?

171 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/17(金) 03:43:15
三国時代の司令官級人物ってそんなにいないだろうけど、その中でもかなり下だろうなぁ孫権。あと、

E:戦場に出た事のある人物(武官系
F:戦場に出た事の無い人物(文官系

この行まぎらわしいだけ。ランク付けできそうになけりゃ外した方がいいとオモ
武勇付けの、終始ぱっとしなかったような感もこのへんが原因だったんじゃないかな。

172 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/17(金) 04:02:28
前線指揮官の任命にも
変にツートップに仕立て上げて、混乱おこしたり(周瑜と程普)
後に呂蒙にゴルァされたりだしな。

敗戦って結果のみでガンガンマイナスにしてくのは良くないと思うけど
孫権に関しては軍事関連の司令官能力が高いとは思えない

173 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/17(金) 04:07:53
史書の記述を元に能力決めれるテンプレが某所にあったんで、
それを作り直してみたんだが、投下していい?

174 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/17(金) 04:21:51
>>173
はやく!

175 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/17(金) 04:40:03
武勇 猛将タイプの将が部隊を率いた時の戦闘能力
【E】病弱。弓は札を穿たず。馬に乗れず。
【D】合戦に参加した。武官の経験有り。
【C】壮烈な戦死を遂げた。先鋒として敵を打ち破った。
   殿・後詰めとして敵を防いだ。騎射に巧みである。
【B】力戦して功有り。武器を奮って多くの敵兵を殺す。
   城・敵陣に一番乗りすることが多かった。
   力戦して陣を陥れ敵を退ける。
【A】殿・後詰めすると敵は恐れて近づかない。虎を斬り殺す。
   槍術・剣術・武術・馬術の天下の達人。
   味方を護衛して敵中を突破。名前を聞き、旗を見ただけで敵は恐れる。
【S】勇三軍に冠たり。当時きっての猛将とされた。
   一般民衆に武勇を謳われる。敵中に突入し、将を斬り旗を倒し、傍若無人に暴れる。
   神の如き武勇と恐れられる。敵中に単騎突入し、敵将の首を獲る。

176 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/17(金) 04:50:20
采配 知将タイプの将が部隊を率いた時の強さ、大軍を率いた時の用兵の巧みさ。
【E】一軍を率いた経験無し。
【D】一軍を率いた経験有り。都督の経験有り。
【C】一軍を率いて敵軍をしばしば破った。一軍を率いて敵城をしばしば攻め落とした。
   総大将として采配EやDの将率いる大軍相手に奮戦、もしくは打ち破った。
   采配EやDの将が篭る堅城を落とした。
   兵士・勇士をよく養う。兵士に厚く恩賞を与えた。
   食事を兵士と同じにし、陣営を立てるまで休む事なく辛苦を共にした。
【B】軍陣が整い、号令が行き届いている。
   総大将として采配Cの将率いる大軍相手に奮戦、もしくは打ち破った。
   采配Cの将が篭る堅城を落とした。
   遠くまで斥候を放ち敵を防ぐ。独特の得意の戦法を持つ。
   軍法を順守し、軽挙妄動をしない。善く兵を用いる。
【A】総大将として采配Bの将率いる大軍相手に奮戦、もしくは打ち破った。
   采配Bの将が篭る堅城を落とした。
   軍規が厳正で全く略奪をしない。兵士の心をよくつかみ、心から信頼されている。
【S】総大将として采配Aの将率いる大軍相手に奮戦、もしくは打ち破った。
   采配Aの将が篭る堅城を落とした。

177 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/17(金) 04:58:08
智略 敵の行動を読む能力、計略にかける能力。
【E】計略を用いたことや情勢分析を行った記述が無い。
【D】謀士や腹心を務めた。弁舌に巧み。
【C】智略EやDの敵の計略を見破った。
   智略EやDの敵の行動を正しく読み取ったことがある。
   敵に計略を仕掛けて成功させたことがある。
【B】智略Cの敵の計略を見破った。
   智略Cの敵の行動を正しく読み取ったことがある。
【A】智略Bの敵の計略を見破った。
  智略Bの敵の行動を正しく読み取ったことがある。
  複数にわたり、策略を立てて成功させた。
【S】智略Aの敵の計略を見破った。
  智略Aの敵の行動を正しく読み取ったことがある。
  ほぼ計略に誤りや失敗はない。
  計略を次々と立てすべて完璧に成功させた。

178 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/17(金) 05:22:04
内政 政策能力、統治能力
【E】文官職の経験無し。
【D】文官職の経験有り。
【C】文官職を務めて有能と称された。
   内政面での献策を行い、政治を改善したことがある。
   建国の際の制度作りに関与した。
【B】文官職を務めて、内政面で際立った業績があった。
   内政面で数多くの献策を行い、政治を改善した。
   地方を治めて、民衆に讃えられるほどの善政を敷いた。
   賊が跋扈する地方を統治し、賊を根絶した。
   土地を切り開き、治水を行い、儒学を振興し、民衆の生活を安定させた。
   建国の際の制度作りに関与し、優れた制度を作るのに貢献した。
【A】文官職を務めて、内政面でその時代の手本になるほどの業績があった。
  地方を治めて、後世まで語り継がれるほどの善政を敷いた。
  政策面で画期的な献策を行い、絶大な業績をあげた。
  優れた法律を制定するのに尽力した。
  建国の際の制度作りを主導し、優れた制度を作るのに貢献した。
【S】文官職を務めて、内政面で後世の手本になるほどの業績があった。
  政策面で画期的な献策を行い、歴史に残るほどの絶大な業績をあげた。
  建国の際の制度作りを主導し、後世の手本となるほどの制度を作るのに貢献した。

179 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/17(金) 08:16:25
>【S】勇三軍に冠たり。当時きっての猛将とされた。
>一般民衆に武勇を謳われる。敵中に突入し、将を斬り旗を倒し、傍若無人に
>暴れる。
>神の如き武勇と恐れられる。敵中に単騎突入し、敵将の首を獲る。

なんかあからさますぎてる。

180 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/17(金) 09:41:28
負けたりする事を過小評価し過ぎるのは良く無い
孫権の敗北も壊滅に至っていないので、物凄い下手と言うわけでは無いでしょう。

あと段階を分け過ぎるのも良く無い徴候かと
後日微調整で分けて行くのであれば問題ないが当初からそれだけわけるのは難しいでしょう。
分かりやすく分け、その後に段階を増やすなり調整されるのがよろしいでしょう。
学校でお馴染みの5段階評価程度が評価するによろしいでしょう。

A:突出している
B:優秀である
C:能力が認められる
D:記述が無い
E:欠陥がある

181 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/17(金) 12:29:50
>173
テンプレ乙。目安には手頃でないの。
「だって○○にも〜の記述がある」
の能力インフレに制限はかけられると思う。

182 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/17(金) 13:53:24
武勇 猛将タイプとか、采配 知将タイプってのは
前者を部隊長能力、後者を司令部能力って考えていいの?

なんか、猛将とか、 知将って括りは全部評価し終わった後から出てくるもんで
先に設定されると激しい違和感がある。

183 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/18(土) 03:03:23
ageてみよう

184 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/20(月) 20:41:22
age

185 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/20(月) 20:54:56
スレ内容読んでないけど、陳登の能力が抜群なのは間違いない

186 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/20(月) 21:03:29
>>180の基準を元に陳登を…

部隊 C
司令 B
内政 C
外交 B

なんかインフレ気味。

187 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/20(月) 21:13:46
>>186
ええ?!
部隊 B+
司令 A
内政 B+
外交 Bだよ
孫策に攻められても軽く撃退した作戦能力、終いにはその途中で孫策暗殺されて死亡
その後孫権が弔い合戦にやってきたが、これも軽く撃退で司令A
孫策戦では自ら部隊を率いて孫策軍の首級5桁上げるほどの快勝で部隊B〜A
内政は抜群の手腕を上げ民にも慕われる
広陵太守から東城太守に移った時も、広陵の沢山の民が慕って東城に移ったほどの仁徳
早死にしたからそれほど名前残せなかったけど、抜群の人物だと思う

188 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/20(月) 23:11:15
話しを戻してみると、>>164のEに孫権を入れると解りやすいとオモ。こいつ以下の活躍ならEってことで。
S:とりあえず空欄
A:曹操、呂蒙、諸葛亮、周瑜、
B:王渾、ケ艾、郭淮、
C:劉備、馬超、曹仁
D:于禁、朱然
E:戦場に出た事のある人物 孫権
F:戦場に出た事の無い人物
G:

【部隊長的な強さ】
S:とりあえず空欄
A:曹操、曹仁、ケ艾
B:于禁、馬超、呂蒙、朱然
C:周瑜、郭淮、劉備、諸葛亮
D:王渾
E:戦場に出た事のある人物 孫権
F:戦場に出た事の無い人物
G:

馬超の司令官については曹仁・劉備と比較しての問題になるかと。


189 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/21(火) 00:34:21
BとCの差そのものがイマイチピンと来ない。
光栄的統率値で例えるなら、95〜90の間の差みたいなレベルの話?

190 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/21(火) 11:47:23
>>188
孫権は+評価できそうなところで黄祖、皖城、荊州×2、濡須×2、石亭
で司令官として動いているがここら辺の評価はどうなってるの?

191 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/21(火) 12:03:53
ここで孫権を酷評してるやつらは、「合肥がダメ」ってだけで論じてる感じ。

192 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/21(火) 13:26:59
暫定的にであれ、下があれば納得すんだろ?

S:
A:曹操、呂蒙、諸葛亮、周瑜、
B:王渾、ケ艾、郭淮、
C:劉備、馬超、曹仁
D:于禁、朱然
E:孫権、(董卓)
F:(袁術、曹爽)
G:

193 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/21(火) 17:24:26
>>189
たとえば馬超は10万を率いて長安まで進出、その後敗退、ぐらいしかないし、劉備は曹丕に「兵法を知らない」とまで言われる
大失態をやらかしてるのに比べて、例えば郭淮は諸葛亮の作戦を見抜いたり、姜維を押さえ込む働きなど結構な差があると思うが・・・
>>190
そこらへんは部下の働きも大きかったのと、合肥だけでなく黄祖攻め等失敗が多かったりとかも関係あるんじゃないか?
本来なら曹操だって劉備だって部下の貢献あってのはずなんだがね。ガチ評価は皖城ぐらいな感じだ。
それと二度目の濡須に孫権は出陣してないのでは?してたらゴメン。


194 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/21(火) 20:49:26
>>193
甘寧奇襲の江表伝の記述だと濡須で指揮してるっぽい

195 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/21(火) 23:37:43
>>194
濡須は呂蒙と蒋欽。
孫権は多くの戦で総司令または総大将と言うべきポジションで参加してる
が、当人が積極的に指揮を執ると何故かポカが多かったり…

あと甘寧の奇襲だけど、呂蒙伝によれば呂蒙も曹操軍の先鋒に攻撃している事から、
甘寧伝のはあくまで甘寧個人だけの事績を取り出したと考えられます

196 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 02:33:04
>>193
その曹丕自身は軍事能力かなり妖しいんだが。

197 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 02:52:18
そのへんは笑える話ではあるな

198 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 03:15:57
>>193
そうなると、BとCの差ってほとんど戦闘の記述量の差に拠るものに
なりそうな気がするんだわ。
郭淮が優秀だってのはわかるけど、劉備、馬超、曹仁あたりと
実績面での差がピンと来ない。


199 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 09:22:10
>>196
多分、曹丕が劉備のこと笑ったとき、部下はみんな「お前が言うなよ」って内心笑ってたと思う・・・

200 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 09:37:23
正直、曹丕=劉備=孫権
だと思うのだが、甲乙つけがたい

201 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 11:35:38
能力だけで見れば明らかに劉備>他2人

202 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 11:49:11
>>201
どこら辺が?

203 :魔玉 ◆TLOxROt30I :2005/06/22(水) 11:55:18
( ゚Д゚)y−~~

204 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 12:17:37
>>200
おもしろい冗談だな・・・

205 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 12:27:40
>>204
頼む、どこらへんが圧倒的に違うのか教えてくれぃ

206 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 12:30:50
領土の増やし方

207 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 12:42:08
ハングリーさ加減とかも
劉備はなんつーかバケモノ

208 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 15:20:33
曹操はかくれなき英雄だが、祖父の後ろ盾と人脈と莫大な遺産など恵まれた環境があった。
曹丕は才に恵まれてはいたが、以下同上
孫権も才に恵まれてはいたが、同じく父兄の(ry
劉備は曹操には劣るものの、卑賤の身から皇帝にまでなったのはまさに(ry


209 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 15:31:16
>>201
劉備は曹操・曹仁・陸遜・高順といった一流どころ以外には負けてない。
結構ザコクラスの将を食い物にしてる。

210 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 15:47:26
まぁ正直舐めてかかって賊軍にけちょんけちょんにされるような奴と一緒にしてくれるなってとこですよ。

211 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 16:06:38
>>206-208
用兵の議論じゃないの?

>>209
高順あたりまで一流にするなら孫権、曹丕も
有名どころに負けてる気がするけど違うの?
ザコになら勝ってるしね!
というか曹丕に指摘されるほどあからさまな失策をする
劉備が、この二人を圧倒しているとは思えないんだがなぁ

三人ともCでよいように思うが

212 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 16:07:53
>曹丕に指摘されるほどあからさまな失策をする劉備

この論理が笑われてることにまだ気づいてなかったのか…

213 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 16:12:41
>>211
劉備は戦歴のおそろしいまでの長さからいって、有名であろうが無名であろうが負けの印がついてしまうのは仕方がない。
そもそも劉備降格の話かと思えばともかく曹丕孫権がCって。上で出てた孫権擁護の人かい?

214 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 16:16:32
>>212
戦下手な曹丕の予想通りに敗れてるのだから論理としてはおかしくない

215 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 16:25:02
>>213
擁護というよりも、同じ程度の司令部の力かなと
優秀な部下が入ればちゃんと作戦立てられますよみたいな感じ
劉備は部隊長としては長いけど、一から戦略立てる部署は苦手そうというか苦手だよね

曹丕、劉備、孫権、于禁が司令部Cで
劉備、于禁が部隊長B
曹丕、孫権が部隊長Cな感じかなと思うのだけど

216 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 17:19:51
210は
まぁ正直(孫権みたいな)舐めてかかって賊軍にけちょんけちょんにされるような奴と(劉備を)一緒にしてくれるなってとこですよ。
でオケ?

217 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 18:11:50
>>215
曹丕の司令的役割でプラスになるようなことってなんだろ

218 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 18:54:34
劉備の敗北を予言とか?

219 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 01:53:13
劉備は戦術指揮は普通
ただ戦闘に入ると異様な粘り強さを発揮する不思議男

曹丕は戦術指揮は不明
軍学に優れた親がいるお陰で知識は豊富な頭でっかちな気がする

孫権は戦術指揮は同じく普通
でも粘り強さが足りない

220 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 01:58:59
劉備って軍略にはどれくらい明るかったんだろう
個人的には軍略無視の完全現場主義で生き残ってきたような印象があるんだけど
曹丕が劉備の布陣を笑ったというのも夷陵で大敗したから逸話として残ってるだけで
実際はそれまでの戦いも全部軍略無視したモンだったんじゃないだろうか

221 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 02:00:45
現場のセオリー=軍略の基本だぞ

222 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 02:07:31
>>220
劉備が負けた戦ってのは、夷陵以外は「こりゃ曹操じゃねーと勝てねーわ」ってぐらい、
相手か戦力か状況が悪い戦い。
まっとうな戦力で戦えた戦では、ほとんど負けてない。
夏侯惇との戦いでは伏兵も使ってるので、軍略に暗い事は無いと思う。

223 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 02:11:57
あと、劉備は「勝てない」と判断した時の逃げっぷりでは一流。
ヤバイと判断したら、家族も部下も置き去りにして、一目散に遁走する。
勝敗分岐点を見切るのも軍略のうちだろう。

224 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 02:14:55
逃げ足の速さでいえば思い出してしまうのは姜維
姜維の場合は文字通りの「速さ」だが

225 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 02:17:10
ごめん、軍略じゃなくて軍学だな
曹丕なんかは父親がアレだからかなり孫氏なんかにも堪能だったんじゃないかと思うが
劉備はそういうのをどの程度修めてたんだろうって疑問に思ったのよ
盧植門下の時は勉強苦手で遊び回ってたって言うし

226 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 02:25:31
勉強よりも遊びを好んだとしか書かれていないよ
また学費だしてくれた叔父の劉備の評価はかなりのものだよ

227 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 02:32:50
でも、諸葛亮を実戦に関わらせなかったところ見ると、机上論より現場の経験重視してたのかもね。
なんで龐統のことは普通に軍師として用いてたのかは謎だけど。
劉備的に龐統と諸葛亮の扱いを分けたものってなんだったんだろう。

228 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 02:59:09
法正も実戦経験無かったんじゃない?
現場経験ももちろん考慮したろうけど諸葛亮の人格がデスクワーク向きだったと感じたんじゃないかな。
ホウ統は人を持ち上げる性格だったから前線で武将と諍いを起こさないと踏んだんだと思う。

229 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 04:15:38
記述こそないが荊州益州の人間は実戦経験は異民族戦にて積んでいる人間もいると思う
諸葛亮に関してはどう見ても理論先行型+いざって時に足を止めて最善手考えるタイプだから
実戦だととても危なっかしくてつかえなかったんじゃないかと


230 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 08:29:25
No.1が戦争に出た場合、No.2が国を固めるのは当然かと。
魏で言えばジュンイクも戦争が下手だから留守をさせられていた分けではなく
いざという時に曹操の全権代理人たりえるから留守を守っていたわけだ。

231 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 11:35:54
国を固めてたのは関羽でしょ
龐統の死後は諸葛亮も呼び寄せられてるんだから
劉備の中で諸葛亮をNo2として認識してたとは思えない
劉備が諸葛亮の進言を聞き入れたこともほとんどないし
夷陵敗戦後の孔明の言葉からも当時劉備の信任が諸葛亮第一でなかったことは明らかかと

232 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 11:44:00
関羽が樊城攻撃を開始したとき、孔明も何らかの手を打つべきだったのにそうしなかったのは、
当時まだ孔明がそうしたことを決定、進言できる地位にいなかったからではないかって見解もあったな。

233 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 12:26:38
>>231
漢中王になってるし、三分の計のままに行動してる。
蜀討伐は新しい人材ばかりを連れて行って能力を見聞している為
劉備が諸葛亮以上にホウ統を評価しているからでは無い。
荊南は劉備の本拠地であったが、得た蜀が本拠地に変わる
つまり、中央が変わるので、No2の諸葛亮を呼び寄せたとも言える。

234 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 12:55:12
No2とかにこだわる必要ないんじゃない?
単に諸葛亮に関しては、戦術面より内政やら外交面を評価した配置だったってだけのことじゃないか

235 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 13:06:12
>>233
漢中王になったのは曹操の魏王就任に対抗するための政治的措置だから
単純に諸葛亮の進言に従ったためって考えるのはどーなのよ
あと、草盧対の下りは記述に矛盾があるから迂闊に史料として拘えるのはどうかと思うぞ
諸葛亮の住居で語り合ったのは確かだろうが本当に天下三分計が語られたかどうかは疑問
そもそも益州奪るべしと強硬に進言したのは龐統でしょ

236 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 13:16:51
>>234
劉備に足りない視点を持っていたというのが正解かもね

>>235
結論として諸葛亮に有利な事が書かれている正史は捏造で
諸葛亮に不利な事が書かれていなくても想像できそうな事は正しい正史なのか?

対抗措置の為の進言は進言じゃないのなら、どんな進言なら進言なんだ?
というか、ホウ統の蜀取り進言は蜀取りに行く途上での話(獲る方法の話)だろうに
いつの間に発案者になってるんだ?

237 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 13:29:49
>>236
龐統が発案者と言ったわけじゃないよ
天下三分計が捏造だなんてことも言ってない
ただ、天下三分が草盧対の時点で打ち合わせされていて益州奪るのが予定通りだったなら
どうして劉備が今さら迷ってそこに龐統なんかが出しゃばってくるのかってこと
発案者である諸葛亮が何も進言しようとしないのはなんで?って疑問に思うのはそんなおかしいか?
だから、天下三分計が実際に戦略として提示されたのは劉備が益州に招かれたのがきっかけだったんじゃないかってこと
諸葛亮と龐統、劉備といったみんなで話し合って決定したつて考えるほうが現実的だと思うけど
草盧対だって「二人だけで話し合った」みたいなこと書いてあるのに
じゃあ誰がその二人の会話を記録したの?つてツッコミ入るのは当然のことでしょうに
劉gと諸葛亮の密談とおんなじだよ

漢中王は、諸葛亮一人の進言ではなく蜀の首脳陣全体で話し合って決定されたことを
形式上諸葛亮が進言してそれを採るって形で進められたんじゃないかってことね
もちろん諸葛亮が大きく関与してたのは確かだろうが諸葛亮個人の業績に帰するのはどうなのよって話

別に諸葛亮が無能とかそんなこと言ってないからいちいち絡んでこなくていいよ

238 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 13:32:44
Shiftキーの調子がおかしいのか「って」が「つて」になってるとこがあるけど気にしないでくれ

239 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 13:42:49
>>237
進言と呼ばれるものはみんなで協議した中での中心人物が行うものだと思うのだが
なんで諸葛亮の時だけは、諸葛亮の功績にならないんだ?
というか天下三分計は諸葛亮の自己申告なので、信じないのならそこで話が終わる

ホウ統は周瑜の元で蜀攻略を協議していたはずだから、蜀攻略のスペシャリストだろうと思う。
孫家より劉備を選んだのは蜀攻略をする予定があったからじゃなかろうかと想像している。

240 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 13:47:04
まあ確かに、天下三分の構想聞かされた時点で、
益州奪る=同族の劉璋攻めることになるって気づけや劉備、とは思うな。
今まで触れたことのない戦略構想に触れたせいで浮かれまくって、
そんなことまで気が回らなかったってのも劉備ならありそーだなー、とは思うがw

241 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 13:52:17
>>239
そういう捉え方なら別に俺にも異存はないよ
>>233からの流れで諸葛亮が個人的に行った進言に限定した話なのかなと思ってたので
どこからが議論の結果でどこまでが諸葛亮個人の意見か一個一個見定める流れなのかと思ってた

んー、つまり、龐統は蜀を攻略するためなら仕える陣営はどこでもよかったってことなのかな
ちょっと興味深いんで詳しく聞かせてほしい

242 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 14:10:39
>>241
これは漏れの想像に過ぎないと断っておくので注意

ホウ統は周瑜のシンクタンクとして蜀攻略の作戦を考えていたと思う。
理由は周瑜の部下であり、魯粛が知るほどの優秀なスタッフである。
故に周瑜が行おうとしていた作戦に参画していた可能性が高い為。
蜀攻略でも三策用意している周到さからも想像できる。

しかしながら、心血を注いだ蜀攻略作戦は周瑜が死ぬことで頓挫する。
後任の魯粛は評価はしてもらえるが今すぐの蜀攻略に積極的ではない。

そこでホウ統が蜀攻略を企図していた事を知る諸葛亮がスカウトをしたのではないだろうか?
コネの無い突然のホウ統士官、いきなりの抜擢は同門の諸葛亮がコネになり推薦したと考えた方が自然。
ホウ統も考案した作戦を試せるので誘いに乗ったんじゃなかろうかと思う。

呉に居たらお蔵入りになりそうだったわけだし。
現代でもお蔵入りなりそうな企画ごと転職するのはママある事だしね。

243 :無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 14:22:32
>>242
なるほどね
俺個人は龐統が蜀に降ったこと自体はあくまで偶然みたいなもんだと思うけど
一度干されかけてからの再抜擢にはそういう意図が働いてたと考えられるかもしれない
魯粛も龐統を重用するよう劉備にわざわざ書状を送ったって話だけど
魯粛は劉備が益州を奪ることに肯定的だったわけで龐統を活かせというのはそういうことだったとも考えられる
俺も天下三分という明確な構想を当初から諸葛亮と劉備が共有していたとは考えてないけど
諸葛亮が益州攻略を視野に入れていたということまで否定するつもりもないので

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